こぼれ話

                      銚子街道大田宿

江戸から成田までが成田街道で、この成田街道の途中酒々井宿から分かれて、多古村を通り八日市場村を経て太田宿に至り、三宅村を通り銚子までが銚子街道である。江戸からは2泊3日かかったといわれている。       

椿海の干拓が終わり新田18ヵ村ができると、太田村は宿場的様相を示し、その中心的存在になっていた。延宝4年(1,674年)頃には毎月1日、6日には市が開かれ、街道を行き来する人々や近在からやってくる人々で賑わいを見せていた。

元禄8年(1695年)の椿新田総検地の際、検地奉行が宿を大田村に本拠を置いたのもこの大田村である。
 




                       水戸黄門一行が宿泊

元禄8年正月19日、未だのんびりとした正月気分の抜けなかったこの大田村は、急に上を下への大騒動になった。それは明日、天下に名君として名高い水戸黄門、前中納言光圀の一行がこの村に到着して、御泊まりになるという報せが伝えられたからである。

常陸国大田の西山荘に隠居していた光圀は、元禄7年に将軍綱吉の招きで江戸に出て、江戸城中で将軍臨席のもとに「大学」の講義をしたが、その帰り路に下総路をえらび、成田から飯高壇林に寄って銚子街道を通り、銚子を回って水戸へ帰ることとした。その途中、大田村へ宿泊する予定となっていたのである。

この光圀一行は、テレビ映画にあるような助さん、格さんをお供に連れた気楽なものではなく、家老、側用人、医師、祐筆をはじめ徒侍、馬周り、足軽などを連れた総勢334人という参勤大名並みの大名行列なのである。この宿泊を賄うこととなった大田村が大騒動となるのも無理は無かった。





本陣に決められた大田村の八郎兵衛家をはじめ28軒の民家、成田村の5軒の民家が一行の分宿する宿と定められた。

徳川光圀が泊まる本陣を八郎兵衛家におき、家老栗田八郎兵衛他40人を四郎兵衛宅に、側用人木村権三右衛門他15人を市郎兵衛宅にというように、身分階級に応じて大田村、成田村の民家に振り分けた。

これらの家が、その準備に大わらわとなったことは勿論だが、大田村と隣の成田村の村民総てが駆り出され東西奔走したことであろう。

それだけではなく、この一行の荷駄を運ぶための馬や人足などは、大田村だけでは賄いきれず、近在の11か村(網戸、十日市場、後草、蛇園、井戸野、川口、駒込、中谷里、椎名内、大塚原、神宮寺)が負担して次の宿泊地まで送り届けたのである。

当時大名の通過は街道沿いの村々に大きな負担を与えた。

徳川光圀は水戸藩2代目の藩主、号は梅里、中納言になったので水戸黄門といわれた。寛永五年生まれ、元禄十三年に没したが、晩年は水戸郊外に隠棲して大日本史の編纂に当たったことは知られている。

また光圀の学芸振興が「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えた事は高く評価されているが、大日本史の編纂により水戸藩の財政収入の多くをこの事業につぎ込むことになり、藩財政の悪化は激しいものだったと。

このようなことから領民への負担が多くなり、そのため農民の逃散が絶えなかった。一説には光圀時代は年貢比率が、八公二民の超重税を強いたと言われている。結果的には「水戸学」が目指した‘愛民’の理想からは逸脱してしまった側面も存在するといわれている。

ちょっと話がそれてしまったが、この光国一行の事例によっても、当時銚子街道が大田、成田、網戸と通り、大田村はその中心的な継場として、宿場化してきていることが知れる。

大田村は正徳元年(1711年)頃には、家数385軒、人口1762人、馬192頭あったという。

そこに明和4年(1767年)安中藩の陣屋ができ、行政の中心ともなり、更に賑わいが加わっていった。





                     無宿人が多くなる。

宿場町は栄えても、安中の陣屋ができても、椿新田の村々や古村の農民は貧しかった。このあたりの農村の荒廃は無宿遊民の発生を促し、その親分衆が多くいた。

飯岡の助五郎、笹川の繁蔵、勢力の富五郎などである。

【関東在方では同類を集めて通り者ととなえ、身持ちの悪いものを子分などとして抱えおき、あるいは長脇差を帯してよからぬ行動をする者も多くなり、一旦追放になった者や無宿人が多い】

と、文化10年(1813年)幕府の役人が報告している。
一本刀の旅人 と言えば格好がいいが,所詮は体制からはみ出さざるを得なかった者達である。

飯岡の助五郎と笹川の繁蔵は、仙龍山龍福寺(通称滝山)の庭で開かれる博打場の事で勢力圏がかち合い、度々衝突し、遂に天保15年8月5日、飯岡方が笹川へ乱入し。大利根川原で乱闘を演じた。
ここで浪人平田深木(天保水滸伝の平手造酒のモデルと言われている。)が討死している。

このような出入りがあると、迷惑するのは村の衆で、狩り出され山狩りをするのである。近在80カ村位に動員が係り、逃げた繁蔵や子分達を追った。
飯岡の助五郎は関八州見回り役の案内を務める岡っ引きでもあり、十手を預かる権力の末端なので追う立場であった。

大田陣屋の代官も、夏目、八重穂、羽計村などが自領なので、万才村の勢力富五郎などを逮捕すべく、村民を督励して大騒ぎをしたらしい。





  
写真、笹川の繁蔵と平手造酒の墓


                    ――― こぼれ話 終わり ―