椿新田・新町村

椿海の干拓が進み、田畑が開墾され、新田内に多くの集落ができて、元禄6年(1691年)新町村に市場町が建設されたが、不繁盛となり普通の農村的な環境になったことは、新市場町の建設の項で述べましたが、その後のことを少し詳しく書いてみましょう

 

 写真 大正末期の新町元禄橋

新町村の市場が、最初に予想したような目覚しい発展を見せなかった原因の一つに、元禄の大飢饉があげられよう。元禄14年の大凶作、飢饉は凄まじいものであった。

この新町村にも、自分の屋敷内に住む百姓にも村民と同じ様に食料を貸し与えてやって欲しいという悲痛な嘆願書が残っているが、この凶作飢饉は、この地方にははかり知ることの出来ない程の影響をあたえた。餓死寸前の村々の中で商売は成り立たなくなっていったのかも知れない。

新町村が農村的な様相を濃くしてきたことは、次の検地にも現れている。寛延2年(1749年)3月新町村に2度目の検地が行われた。これは元禄検地以後に開発された田畑を年貢地に繰り入れるためのもので、検地奉行として吉田源之助、稲守勘右エ門が派遣され、検地の結果田畑40町余歩、石高89石6升8合が新たに打ち出され、村高は一挙に3割増強して226石8斗1升2合となった。

新町村の領主は、他の椿新田の村々と同様に最初から天領(幕府直轄領)であったが、寛延3年、佐倉藩堀田相模守正亮の預かり地となり、その後宝暦10年(1760年)再び天領となった。


宿場町として復活

 市場町として出発した新町村が、その後の状況の変化により市場としては発展せず、代官が名付けたという永初町、昌吉町、繁町の町名もいつかは消えて、普通の農村となっていったが、近世の後期、文化、文政の頃より再び町場としての様相を示してくる。

当時九十九里浜沿岸の村々に、多くの鰯が水揚げされるようになり、そこで作られた干鰯や魚油、〆粕などが、馬の背により利根川河岸へ送られ、高瀬舟に積み替えられて江戸や関宿の問屋へ送られるようになった。

新町村はこの九十九里沿岸村より利根川河岸への荷物輸送の中継地、馬継地となってきたからである。それゆえ村の中には居酒屋や一膳飯屋、そば屋等の店が多くでき、馬町という町も出来た。

このように街道を中心に町場化してくると、この村の農業にも変化が起こってきた。今までのように米麦を作るばかりでなく、瓜や西瓜、薩摩芋、桃などを作り、小見川や佐原の問屋に送って売り捌き、また棒手振(ぼでふり、行商人)によって近在の村々へも売られた。

そしてこの様な商品作物を栽培する肥料も自給の草薙堆肥ばかりではなく、干鰯のような金肥が使われるようになり、この村の農業は、他の新田村とは異なり、田畑の面積が狭いということもあって、集約的商業的な農業に変わっていった。


新町村の神社

  神社は村の鎮守様である新町大神と八雲神社とがある。新町根元記」によると、元禄5年6月23日に創建されたと記されている。妙義、稲荷、牛頭天王3社のうち、妙義、稲荷の両社が明治3年2月に新町大神となり、牛頭天王が同年八雲神社となった。

 新町大神の祭神は、磐筒男命(いわつつのおのみこと)、磐筒女命、蒼稲魂命で、八雲神社の祭神は素戔鳴命である。

 「椿新田開発記」及び「新町根元記」によると、大田村の石毛六郎右衛門、加瀬重兵衛、加瀬喜右衛門の3名が、元禄4年(1691年)新市場開設を願い出たとき、上野国妙義山にその成就祈願を籠めた。翌5年新市場は発足し、3月に市祭が行われた。

そこで3社地を3名が寄進し、大田村常光寺を持って妙義、稲荷両社の別当寺とし、大田村加納院を持って牛頭天王社の別当寺とした。そして3社の神主には井戸野村の兵庫が就任した。

 妙義、稲荷両社の左右を流れる川(5間川と7間川)に板橋を架渡し、毎年6月に祇園祭が行われたが、その経費一切を前記3人が負担したという。

また「椿新田開発記」所収の明細帖によると、毎年2月7日妙義、稲荷社で、6月23日牛頭天王社で、それぞれ祭礼が行われたとある。明治6年の「書き上げ」によると牛頭天王社の後身である八雲神社の祭礼は毎年7月17日に行われるとしている。

 

           写真 新町大神

祭りの民俗

 新町地区は近世中期以来の新開地であるので、古来からの伝承は残りにくいところのようである。

新町大神社の祭礼は2月7日行われ昭和の中ごろまでは盛大に行われていた。

八雲神社の祭礼も6月23日に行われていたが、何時の世からか明確ではないが、農作業の都合か7月23日に行われるようになった

しかし祭礼の月日は今でこそ太陽暦の新暦を使っているが、昔は旧暦であったので、幾分違いはあると思われる。

以前には祭礼は3日間行われ、神輿が担ぎ出され盛大に行われていた。

神輿は小南の神社のものから分かれたとの言い伝えもあり、以前は青物が出来ると毎年小南の神社に届ける習慣があった。

この祭礼を祇園祭と称し、宵祇園、本祇園とも神社で祭典が行われた後、午後1時ごろ神社を出た神輿は、神官、氏子総代、区長などを先頭に、世話人に警護され、賑やかな笛太鼓と掛け声とともに、新町の中心を通る道路(約4km)を1巡して夕刻当番部落に帰る。これを御巡行といい(今は御神幸、または御巡幸ともいう)、途中新町大神、上町、下町で式典があり、御神酒が大判振舞いされる。

夕食を済ませてからは、当番部落の神社など(上町は威光院、仲町は新町大神、下町は八雲神社)の境内や前の道路で、夜を通し明方まで、神輿をかついだり、笛や太鼓の芸が披露される。近在の村々からも老若男女が集まり、出店も沢山並び、それはそれは賑やかなものだった。

それが昭和の末ごろからは、社会経済の発展とともに自動車交通の増加により、道路使用制限も厳しくなり、御巡行以外は道路の使用は許されず、警備の関係からも時間が制限されるようになった。

又一方、少子高齢化で神輿を担ぐ若い衆が少なくなり、御巡行だけで精一杯、勤め人が多くなり、祭礼や祇園祭の日にちも土曜、日曜と変わってきた。また見物人もパラパラ、元気の無いお祭りになってきた。

 



写真 八雲神社の祭礼祇園祭

 

新町村の寺

椿新田の村として、新町村が成立して間もない元禄8年(1695年)3月この村に検地が行われた。そのときの土地台帳には、僧侶及び寺院の屋敷や田畑の所有地が多く見られる。特に寺院は大田村など隣の寺院が多い。それから55年経過した寛延2年(1749年)11月の新田検地帖には、海宝寺など3寺の所有地が載せられている。

これは、周辺の人々が新田村に入りこんだことと、それらの人々が親村居住時代からの信仰を絶やさないで、新田村にもたらしたことを反映している。

幕末の万延2年(1861年)3月の宗門人別改帳によって、新町村住民の出身地の檀那寺は14カ寺に及び、檀家の戸数は115戸に及んでいる。これによると、天台宗諸徳寺村永命寺32戸、真言宗琴田村海宝寺43戸と2寺の壇徒が圧倒的に多い。

新町村内には、永命寺末の威光院、永命寺下庵の善心庵、海宝寺下庵の薬師庵、長泉寺下庵の秋葉庵が建てられ、それぞれ村民の信仰生活のよりどころになっていた。

この4寺庵の明治5年ごろの記録は次のようになっている。

威光院(天台宗)

正当山と号し、宝永7年(1710年)10月永命寺19世 珍栄の法弟権大僧都栄範が開基。明治2年以前から無住となり、本寺永命寺住職良田が兼務することになった。村方唯一の祈願所である。明治7年4月廃寺となり、その後寺址は小学校となった。

善心庵(天台宗)

明和5年(1768年)7月 善心が開基。庵主は貞栄。貞栄は小南村農 柳堀元右衛門の次男。安政5年(1858年)3月、小南村円覚山蔵福寺において得度。元治元年(1864年)4月入庵。65歳。

薬師庵(新義真言宗)

寛延3年(1750年)2月 定貞が開基。庵主は尼智円。智円は武蔵野国埼玉郡手古林村 篠塚常右衛門二女、明治元年2月琴田村海宝寺において得度。同年4月10日入庵。59歳。境内の薬師堂(現在「あかんどう」と呼ぶ)が現存する。

 秋葉庵(禅僧曹洞派)

享保16年(1731年)10月 光椿禅師が開基。10年以前から無住となる。(以上は明治5年8月の「本末寺院明細取調帳」による、)

また「新町根元記」所収の「村明細帳」によると、村内には山伏2軒があると記されている。いずれも三川村当山修験万宝院帳下で、正徳3年(1713年)法印宿真が開基の勧行院と、同年法印清玉が開基の金剛院とで、ともに本尊として不動明王を堂内に安置している。

明治43年になり、村内に妙福寺(日蓮宗)が建立された。これはもともと多古町にあったが、檀徒が協議して中和村所在の暁典寺(日蓮宗)と合併して、共和小学校の東隣に移建した。現在は共和小学校の校地拡張により、学校の南方に移転した。この暁典寺が昔の秋葉庵という。

 

 

新町村の教育

徳川幕府が倒れてから、天領だった新町村は、房総知県事の管下に入り、明治2年に菅谷県に属し、新治県から千葉県となった。

幕府が倒れたといっても、問題が順調に解決した訳ではない。特に土地の生産力が低くて耕地の少ない新町村では、度々襲う旱魃や水害には、塗炭の苦しみにあっている。

すでに幕末から不作にあい、「扶助助成」や米の安値販売を領主に申し出ているが、明治に入ってからも元年に起きた水害に、強力に救米助成の願いを菅谷県に願い出た。県では「極々困窮人」34人に対し、一戸3升から5升の援助米を貸与している。

34人といえば新町村全戸数の三分の1に近い。これほど多い困窮人を抱えて財政的に弱い新町村では、新治県が出した明治5年の増税方針に対し、免除要請の型で抵抗を試みた。

また、明治5年に新治県から出された小学校設立の指示に対して、当村では困民数多で小学校を設立しても、入校に差し支え勝であるので、当面禁止された家塾(石毛彦右衛門)を許可して欲しいと、嘆願書を提出した。

しかし、この新町村で小学校設立の動きが起こったのは明治8年11月であり、近隣ではもっとも早い時期である。困民数多であっても、また、それ故にこそ教育に対して力を注ぐ構えを見せている。

 

学校の設立

最初、新町、入野、関戸、溝原の4ヵ村で相談し、当時関戸村で私塾を開いていた鈴木利左エ門を教師として招き、新町村の廃寺威光院で開校しようとした。

ところが明治8年12月、学区編成替えによって、入野、関戸、溝原の3ヵ村は26番中学区へ編入され、27番中学区の新町村は1ヵ村のみで学校を設立しなければならなくなった。

こうして明治9年3月、教師(鈴木利左エ門)1名と生徒60名で開校した。学校名は、第27番中学区50番小学新町学校と称した。

、当時の国や県の基本方針は、校舎営繕その他一切の学校の経費は、住民負担でまかなわせる事であった。
戸数126戸、田21町6反余、畑63町2反余のさしたる産業も無い街村的な新町村にとって、学校設立、維持運営の問題は、村史上の大事業であった。明治9年9月、佐倉惣三郎、飯倉清右衛門等を筆頭に、村内42名の寄付金699円余が学資金に当てられることになった。

「共和小沿革史」にはこの寄付について、同年10月付けの「書面の趣、奇特の義につき聞届候」との県当局の認可が載っているが、当時の県の方針から考えれば、寄付と称しても、それは各人の資産状況に応じて出金させる一種の税金のようなものであった。それでもとに角学資金500円以上の3等校として発足した。

 

連合村の形成

 新町村は明治11年11月鎌数村と連合村を形成するが、これによって新町学校の学区範囲も新町、鎌数両村になった。学務委員も各村から1名ずつ、飯倉為之助と金谷惣蔵が選ばれた。

明治15年には鎌数村の人々も可也の寄付をさせられ、新町学校の学資金は2300余円となり、同じ時期に設立された隣村の太田学校の1550余円を大きく上回っていた。

当時学資金は、年1割の利子で村内の富裕層に貸付け、その利子と生徒の授業料を学校の経費に当てて、もし不足が生じた場合には連合村で補助するという方針であったので、学資金の多いほど村財政に負担がかからなかった。たとえば新町学校では、明治15年1ヵ年の学校経費の内訳は、利子77%、生徒授業料13%、連合村の補助9%であった.

しかし学資金を半強制的に出金させられ、これを1割の利息で借り受けなければならない立場にあった村内の富裕層にとっては苦痛なものであった。

また貧民層には、授業料の支払いが苦痛であり、そのため就学率は芳しいものではなかった。特に女子の就学率は極端に悪く、明治15年では学齢児童のわずか15%に過ぎなかった。

新町村における学校の設立も、他校の場合と同じく、当時の国や県といった上からの近代化政策の一環として、多大の住民負担の元に強行されたものであったが、しかしそれだけでは決して今日の学校の基礎は築かれるものではなかった。

明治10年、同17年の2度にわたる県の中央集権的な教育行政方針によって、新町学校は統合の危機に遭遇したが、干潟耕地の真ん中であるという地理的条件を理由に存続させたことは、犠牲を強制されながらも、村民の教育を求める働きがあったればこそである。

教育を求める村民に支えられて、次第に新町学校は充実し、明治25年には校名も共和村立共和小学校となって、設立以来の場所であった威光院跡から仲町の木村乾物店の西側に移転した


大正10年発刊の「匝瑳郡誌」によると、その後時勢に変遷により明治23年学校建設の話が持ち上がり、244月に着工し251月に間口10間奥行5間の校舎と、間口3間奥行2間の教員住宅が完成した。又明治27年には高等科を併設、明治32年に校舎1棟を増設して明治33年から尋常科3学級、高等科2学級編成にした。

その後明治392月農業補習学校を附設、同年1113日共和小学校開校記念日の祝祭を行い、以後1113日を学校の記念日と定めた。

又次のような共和小学校開校記念の歌が作られている。

  共に和らぐ我が里の,同胞集ひいそしみて
     教えの園生打ち開き、文読むこととなりにしは
 治まる御世のあきらけき、八とせの昔今日のこの日
     花も奄ヨり実もなり出でぬ、祝いや祝へいく千代までも

今この歌を見て、頭の奥のその奥の片隅に、かすかに断片的に記憶が残っている。6年間の在校中に教えていただいたものか?誰かに聞いたのか??

その後、共和村多年の懸案であった校舎改築が実現して、明治44年10月16日、現在の位置(新町771番地)へ移り今日の旭市立共和小学校の前身を築いたのである。この敷地面積1,780坪、落成経費7,000円と言われていた

 




写真、共和村立共和尋常高等小学校校舎(昭和13年撮影)


 

 

 写真 旭市立共和小学校(2008年7月27日撮影)

 

 

         ―― 椿新田、新町村終わり ――