大利根用水のお話

 

☆ 低い村と高い村の対立 ☆

寛文年間、椿海が干拓され新田耕地が誕生して以来、新川は排水路として使用されており、椿新田18ヵ村からいろいろな問題もあったが大勢の人夫を出し、川浚いを行い排水に努力していたが、その負担は大変なものであった。しかし一度大雨に見舞われると、新田一帯は水没して湖と化し、また干害ともなれば新川には田圃に汲み入れる水もなく度重なる被害に苦しんできた。

一方、椿新田下方の古村では、椿海干水のとき掘割を溢れた濁流と共に流れこんだ土砂は田畑を耕作不能となし、また椿海の水の恩恵を受けていた付近の村々では、椿海の消滅により大きな被害を受けた。新川は川浚いをして排水をよくすればするほどその被害は大きくなり、窪地の村と、高地の村との水争いの対立は続いた。

このような状態は、幕府が崩れ明治の代になっても、また大正の代になっても変わることはなかった。

しかし、21世紀の現在、干潟八万石の中を流れる新川には、満々として大利根の水が流れている。水田にはこの水が引かれ如何なる旱魃にも水が絶えることはない。また台風などで耕地一帯に降水が多かったときは、新川の水は強制排水がされ、昔の様な床下浸水などは勿論、田圃が湖と化し稲が水没する様なことはない。

これは大利根用水事業の完成と、その後の新川の大改修事業の成果である。では大利根用水事業がどのような経過で実施されたのか、古い記録を紐解いてみよう。

               

大利根用水のお話目次 
1 利根川からの引水構想 
2 大利根用水工事の着工 
3 大幹線工事の完成 
4 大利根用水工事の竣工
5 新たな水問題の出現,塩害の発生 
6 工場排水による汚染 
7 畜産公害の発生 
8 大利根用水施設の更新,新川の改修
9 新 川 回 顧 





 利根川からの引水構想 ☆

頃は大正12年、当時政府は食料増産を目的として、用排水改良事業補助要綱(政府の50%補助)を制定して耕地改良の促進をはかっていた。千葉県ではこの政府の方針をうけて、受益面積14,000町歩余に及ぶ県営の10河川農業水利改良計画を立てた。この計画の中には干潟耕地の排水幹線である新川の改修工事も含まれていた。

県当局は新川の改修によって大正時代に入り連年水害に悩まされてきた問題解決と農業用水の安定的な確保のために、干潟耕地の大整理を企て、その事業の創立事務所を旭町に開設するため、大正12年12月病妻と2人の幼児を連れた若い県庁の技師が派遣されてきた。この人物こそ半生を大利根用水事業に打ち込んだ野口初太郎である。

そして干潟耕地整理創立事務所は、大正13年10月に開設された。この事業は、農業用水として利根川から干潟耕地に水を引くという大事業であるが、途中で谷ツ田の耕地が溜池の新設や拡張で潰されることになると、受益外の地域の猛烈な反対運動にあい殆ど進渉をみなかった。

このような時、大正13年大旱魃に襲われ、人々の生活に大きな打撃をあたえたのであるが、干潟地域(椿新田地域)海岸地域(椿海下方地域)との長く続いた用排水問題の対立を新しい段階に押し上げる契機となったのである。

即ちこの両地区の人々は2百数十年この方、互いに利害を優先させるために激しく対立抗争を繰り返してきたものであったが、このような地域の対立から開放され、両地域のための大水源を確保することの急務であることが痛感させることとなったのである。溜池用として耕地を潰すこともなく、しかも無尽の水源である大利根からの引水構想である。

この利根川引水構想は、誰が最初に唱えだしたのかは不明であるが、野口初太郎によれば三つの引水ルートがあったといわれている。

その1は、小見川町を流れる黒部川を改修して導水路とし用水地点を中和村長部とするもの、

その2は、森山村地崎先に揚水地点を定め、下飯田より良文村今泉を通り、神代村窪野谷へ導くもの、

その3は、笹川町に揚水し、神代村平山を通り、同村窪野谷に導くものである。

野口は第3の予定線を採用し、大正14年1月28日に県耕地課長に意見具申をしている。当時の県耕地課長であった山中謙輔は、この構想を知るや大いに賛成し、早速計画書を作成するように励ましている。同年4月21日大利根引水計画書が県庁に提出され、それは農林省へと送られた。

同年5月より10月にかけて農林省の技師や耕地課長が3回も出張してきており、農林省でも注目する計画に一つであった。

確かにこの計画は、地元農民間で2百数十年にわたる対立抗争を解決すべき画期的な内容を持つものであったが、しかし決してこの計画は関心を持って迎えられたものではなかったのである。

野口たちの計画作成者は、地元の町村長を動かし地元民の喚起をはかろうと考え行動を開始し、旭町長玉置政吉、野田村長伊藤信を訪問したが、余りにも大規模な計画であり気乗りがしないという状況で、その後も海上、匝嵯、香取三郡の町村長を勧誘して歩いているが、実現性に疑問を持つものが圧倒的で、一時は絶望視されたほどであった。


☆ 大利根引水運動の始まり ☆

大正15年11月12日、旭町で第1回の大利根引水計画町村長会議が開かれ、大利根用水の基本調査のための申請書を県へ提出することについて討議がされたが、町村長たちは、「調査費の負担がかかってくるのではないか」という心配が強く、提出反対を唱える声が多かった。

そのため「調査費は、県費もしくは国費」でという条件をつけることにして、ようやく合意に達した。このような消極性の多い中で、八日市場町長大田平左衛門、県会議員大枝十兵衛、干潟耕地の大地主岩瀬爲吉らは最初から積極的な賛成者であった。

昭和2年2月18日、衆議院、貴族院、県知事に対して国営事業の請願書が提出され、同年3月30日には、今井健彦、浜口儀兵衛両代議士によって国営建議案として帝国議会で取り上げられ、農林政務次官や県知事の視察も行われようやく中央での胎動を始めるようになった。

昭和4年6月、地元の足並みをそろえるために、各町村長、農会長を発起人とする期成同盟会を結成し、会長に大田平左衛門、副会長に伊藤信、高木雄之助を選び、同年7月16日には第1回期成同盟会の総会を旭小学校で開催した。5年、6年と計画は順調に進み、昭和7年には殆ど計画は完成し発表を待つばかりとなったが丁度、内閣の交代もあって、特に若槻内閣による強い緊縮政策にはとてもこの大事業は実行不可能と見た農林省は計画を握りつぶしてしまった。

野口たち現場職員も宣伝、説得活動をやめてしまい、地元住民たちも鳴りを潜めてしまい、自然に時を待つ状況に陥ってしまった。

                                                          目次へ

☆ 大利根用水工事の着工 ☆

昭和8年には大旱魃に見舞われた。5月中旬から晴天が続き6月下旬になっても降雨は全くなく、7月上旬には九十九里沿岸の砂地地帯では、乾ききっていない土地は皆無となった。また粘質土は石のように固まってしまった。

当時の記録には「溜池や水路は枯渇し、殆ど用を足さず、井戸を汲み上げる者もあり、風車を設けて地下水を汲む者も各所にあり、管内は異風景を呈するにいたった。これらの用水設備は、1、2反歩の小面積の植え付けを助ける程度に過ぎず、しかも多額の費用を要し、普遍的には実行することが出来ず、多数の農家は、ただ狼狽する。」と伝えている。

ところで一時なりを潜めていた大利根引水計画は、この旱魃の様相を見て関係者は満場一致の賛成でこの計画を推進することに決定した。干害を契機に再び燃え上がることになったのである。しかも昭和9年も前年に引き続き旱魃であったことから、大利根引水計画は人々の熱意をひときわ強く掻きたてることにもなった。

けれども深刻な不況から立ち直りが出来ていない段階でのダブルパンチ的な干害の中では、逆にこれ以上農家の負担を増やしては大変であるという引水計画反対の声が高くなったことも当然である。

昭和9年8月6日、まず匝嵯郡野田村に村民大会が開かれ、大利根用水反対の決議がされ、反対運動の火蓋を切った。旭町袋区にも反対の動きが見られた。特に匝嵯郡内に反対の声が激しく共興、野田、栄、平和、白浜、東陽の各村では反対運動の中心者たちが内務省や農林省に反対陳情を行っており、郡内は賛否両論の別れ騒然としていたと、記録は伝えている。

大利根用水普通水利組合が説立され、昭和9年10月執行された組合議員選挙は緊張の度を強めるものであった。反対派は当選の上で、組合の内部から事業への反対を策する方針であったといわれ、一方推進派はこのような反対派の進出を恐れるあまり八日市場警察署の応援を求めていた。

選挙結果は組合議員76名の内、推進派52名、反対派20名、中立は4名であったが、反対派から警察が選挙に干渉したと、異議の申し立てがされたほどの激戦であった。第1回の組合会議も警察擁護のもとに会議の進行をはかる。と当時の関係者のメモに記されているが、このことは推進派が国家の力を背景に事業を推し進めようとしたことを端的に示したものであり、反対派がこの事業は”管理者ならびに役人の事業なり“と批判していたことに一つの根拠を与えるものでもあった。

昭和10年1月、知事は両派の代表を県庁に招いて調停を行おうとしたが、簡単に妥協が成り立つような性質のものではなかったのである。反対派の主な主張は次の6点にあった。

1、工事費が予算以内で納まるものではない。
2、灌漑面積が予定より減少し、反当り工事費が増大する。
3、支線施設の費用が莫大に必要となる。
4、排水の妨害となり水害を増張させる。
5、耕地が潰れる。
6、干害は10年あるいは5年に1回くらいしかないので既存の溜池で十分である。

これらの主張は決して根拠のないものではなかったのである。たとえば「当局は幹線工事費を明示するのみにして、その余の施設工作についてはなんらの説明をもしませんが、幹線より支線、支線より支流線というように耕地に引水溝を設けざれば、結局用を成さない事と思います。それで幹線を作製した以上、泣いても笑ってもいきおい右水溝を作らざるべからざる破目に陥入ることは当然ではないでしょうか」

と当時の新聞が、この事業の弱点をずばりと指摘していることは、大利根用水の幹線と支線が完成しても、その支流線の完成までにはかなりの年月が掛かったことを見ても、当時かなりの説得力をもっものであったといえよう。

このようなことから推進派は、とても反対派の説得は困難と判断し、「着工を急ぐことが鎮圧の一方法」として、着工促進のための陳情運動を展開した。昭和10年2月27日、内務省から工事認可が下り、3月18日八日市場小学校で起工式が執行され、大利根引水計画は新しい段階にはいったのである。





☆ 工事反対運動の激化 ☆

反対派は屈せず反対運動を展開した。特に工事着工直前、笹川町、神代村、東城村の村長たちは、大利根より揚水する場合、渇水期には塩害が起こりやすいこと、また耕地が多く潰されることから反対であるという陳情書を県当局に提出した。

従来の反対運動は匝嵯郡の南部、新川河口付近の村々が急先鋒であったが、着工段階に至って、揚水地点の村々に反対の火の手が上がったことは、反対運動も新しい段階に移ったことを示すものである。

昭和10年7月、大利根用水事務所が揚水地点である笹川町に開設される。しかし町内の大部分が反対者であったことから、事務所のための借家が見つからず、町長宅の裏庭にあった養蚕室が当分の間の仮事務所となったのである。

事務所探しにも困難があったが、もっと大変だったのは、反対派が勧業銀行に対して資金貸出阻止の署名活動を展開したことにより、前途に不安を感じた勧銀が「各町村1人でも欠けた場合は貸出し行わず」という方針を組合に示してきたことである。

県当局や組合はこのような事態に驚き、昼夜兼行で各町村の個人保証のための押印集めに奔走したのである。古城村などは全村反対のためどこへ行っても拒絶されほとほと途方にくれた、といっている。

押印集めだけではなく、揚水地点の人々の説得活動も大変であった。笹川の大地主は小作人を動員し”愛町耕作会“なるものを組織して反対運動に乗り出している。また大利根事務所入り口のところにある町集会所に大利根用水反対事務所の看板を掲げて反対運動をするものもあらわれた。

このような反対運動の激化する中で、組合は笹川から窪野谷までの大幹線路の測量を開始した。昭和10年9月測量隊が杭打ちのため窪野谷に入ったとき、村民が多数鍬や鎌を持って山の草薙と称して測量の妨害をしようとしたが、測量は警官隊に守られていたので、手出しも出来ずに一応流血を見ることなくすんだ。

昭和11年4月には笹川町の地主たちと話し合いがつき、同年8月には神代村でも調印が済んで、窪野谷のトンネル工事が最大の焦点と成ったのである。

 目次へ

☆ 大幹線の工事完了


待望の用水が新川に入る!

昭和11年11月、第1号トンネルの入札が行われたが、予算超過で不調に終わり、翌年1月再入札しても不調であった。そこで指名入札の方式に切り替え、2月9日やっと15万円で潤間組に落札した。

「東京方面のもっと有力な組に落とすことを希望していたがやむを得ず」と予算の関係から、かなり劣悪な条件で落札させたため、果たせるかなトンネル工事が始まって間もない2月23日落盤事故がおこり、2人の工事人夫が犠牲になった。落盤事故は11月にも2度おこり2名が死亡している。

それでも大幹線に必要なトンネル工事は進捗し昭和14年5月には平山のトンネル貫通式が行われた。そして待望の大利根の水が大幹線を通って干潟耕地にやってきたのは昭和15年4月17日のことである。

「東干潟の川は殆ど揚水、新川も増水せり、利根の水来ると四方に歓声あがる」と当時の状況を伝えているが、「旭町内の組合外の土地も申し込みが出るほどにて、管内あげて祝福す」と目前に滔々と流れる水を見て、人々の大利根用水事業への認識が着実に変化を始めたのである。

「大利根用水が出来たら首をやる」と豪語していた反対派の前古城村長が揚水希望を協議に組合事務所を訪ねたのは、揚水開始1ヵ月後のことであった。

昭和15年は大幹線のトンネル及び水路も完成し、通水が可能となったことから、その年は干害が全県を襲った年であったが、干潟耕地ではそれを防ぐことが出来、現実に大利根揚水の威力が発揮された年である

☆ 大工事の陰で苦労した人々 ☆

 大利根用水は江戸時代以来、干潟耕地内での用排水をめぐる地域的な対立を解消するものとして画期的な意味を持つ事業であったが、その事業の進め方については、反対派も指摘していたように、決して地域住民の充分な理解の下に行われたとはいえない面があった。

中国大陸での戦争拡大という国際情勢を背景に、食料増産という国策を前面に掲げて上からの一方的なやり方には“管理者ならびに役人の事業なり”と非難を浴びたが、この事業の現場責任者たちが、国策と地域住民の利益との統一のためどのような苦心をしていたかを、とかく見過ごされがちであることを、忘れてはならない。昭和10年3月に大利根用水事業所長となっていた野口初太郎は、そのような人物の一人であった。

彼は昭和10年5月反対運動の益々激しくなっていたとき、「新部長視察、案内する役なり、しかるに今朝起床せるに長男覇人死亡す、如何せんと思えど自分が案内せざれば、県にて知らざる事、定めし困るならんと役目は重しとそのまま家人に任せ出る。小見川にてこれを迎う、魚吉にて歓迎を行う、芸者等の踊るのを見ながら長男の事を思い、胸の裂ける感じをして涙を流す」と息子を失い、翌11月5日には、「出勤せんとしたるに家人に節子の病状を訴えられ引きとめらる。電話にて病状を医者に照会中。ついに永眠する。永臥床しすでに数日前より重体なることを聞いていたれど、多忙のため、ただの1日看護しるのみにて永別するに至りたり、遺憾しごくなり」と妻をも失っている。

家庭を犠牲にしてまで事業完遂に尽力した彼に対し、事業推進に困難が生ずれば、その責めは下級の現場責任者に転嫁されるという役人世界の宿命がまっていた。昭和18年3月、東西幹線の工事を進める中で、特に東幹線における粟野区の用地買収が難航していた時、県耕地課長は野口を県庁に呼びつけ、机をたたいて「君の出方が激しいから地元を硬化させることになる、これまで延びたことも着工当時より君が余り強く出るためだ」と一方的に決め付けた。

しかし実際は、粟野区間の解決に際して県耕地課長が現地に乗り込んだときには、“応じなければ収容法を適用する”と豪語し、野口以上の強硬な態度で解決させていたのであった。

大利根事業といえば、地元選出の国会議員や有力な地方政治家あるいは国や県の高官の人々が尽力者として広く知られているが個人の家庭生活まで犠牲にして、東奔西走し困難な課題に挑戦した、下積の功労者の存在を、この事業の犠牲者と並んで忘れてはならないだろう。

昭和18年9月、積年の粟野区用地買収問題の解決直後、野口は勲6等に叙せられ退官した。大利根用水事業は、東西幹線の工事、そして支線工事へと進む段階に至ったのであるが、戦争の激化により、すべて戦後まで事実上の延期となってしまうのである

 

 大利根用水工事の竣工 ☆

昭和19年2月大利根用水改良事務所から“セメントいまだ入荷いたさず、当所においても工事上支障を生じ居る”という1通の手紙が山武郡横芝町の請負業者に送られている。セメント、ヒューム管、砂利、鉄鋼資材などは配給統制と戦局の悪化の中で日に日に不足をきたしていったのである。

不足になっていったのは建設資材だけではなく、測量のための機械器具、設計書の印刷に必要な用紙や事務用品までも、また土工のための作業服、地下足袋なども不足をきたした。

そして戦争の激化は労働力の不足をもたらした。昭和16年からは大利根用水工事にも、学生、生徒の勤労奉仕が投入されてゆくのである。昭和18年7〜8月の夏休みに旭農学校の生徒は、測量や工事に862人が学徒増産報国隊の勤労動員に、小見川農学校、匝嵯中学校、敬愛商業の生徒と共に使われていたのである。

工事は戦中、戦後を通じて続けられたのであるが、資材や労働力の不足から、牛歩のごとき進捗状況であった

 

大利根用水工事促進後援会の発足

利根用水の当時の工事をめぐる情勢は、食料事情の悪化やインフレの高進そして労働力の不足などから、工事を請負っていた建設業者が操業が不可能になり引き上げ準備をしているというのだ、そこで工事請負者に食料や人夫などで協力したり、促進のために報奨金を出して進捗をはかる、あるいは賦役の型で自らも労働力を提供するための組織を作ろうと、昭和21年1月26日、旭町、矢指村、富浦村など東幹線関係の町村長、農業会長などが滝郷農業会に集まった。

集まった人々には、このまま工事が中断すれば十有余年の努力が水泡に帰するのではという共通の危機意識があったので、1人の異論者も無く会長に岩瀬爲吉を推して大利根用水工事促進後援会を結成したのである。

この後援会は、米の供出事情の厳しい中を食料米の確保に努力し、建設資材の調達にも東奔西走、資金の調達でも筆舌に尽くし難い努力が払われた。そのかいあって昭和22年には東幹線への通水の見通しが立ったのである。

 

西幹線通水で竣工式挙行

何度か困難に直面することがあったが、人々の心の支えとなったことは、干潟地区の300年に及ぶ歴史的な対立抗争に終止符を打つことが出来る“水がそこまで来ている”という現実と、”水さえくれば“という強い期待であった。

この期待こそが、敗戦の混乱の中でも、人々を挫折させずに何度も立ち上がらせる元となったのである。東幹線に遅れること3年にして昭和25年には西幹線にも利根川の水が通水されたのである。

昭和26年8月には、西幹線の最末端の東陽、白浜両村にまで通水ができ、大利根用水事業の当初の目的は達成されたので、同年11月15日八日市場小学校校庭で竣工式が挙行された。昭和10年3月18日に同じ場所で起工式が行われて以来16年の歳月と2億980万円、延べ120万人を要した大事業の一つの到達点であった。

だが幹線への通水が完成した事で大利根用水事業の完成ということはできないし、干潟地区の問題がすべて解決した訳ではない。支線とそしてその最末端まで利根川の水が行き渡るようになるのには、それから20年余の歳月を要したのであるから、東西幹線への通水は、折り返し地点に立ったようなものであったけれども、椿海の干拓以来、水問題で対立抗争を繰り返してきた干潟地域と九十九里沿岸地域にとっては、基本的な問題の解決となったのである。

 

大利根祭りの開催

昭和30年11月1日旭市長は、八日市場市長、干潟町長、飯岡町長との連盟で大利根干潟土地改良区連合へ「本年は近年稀なる大干ばつでありますが、わが大利根、干潟両改良区域は、古今未曾有の豊作が決定的に予想されるに至りました。その原因は大利根用水の恩恵によること」として”大利根祭り“を挙行することを申しいれたのである。

この申し入れは早速受け入れられ、同月19日“大利根祭り“は旭市中央小学校講堂で盛大に開催されたのである。当日は天候にも恵まれ、会場は参会者で溢れ、郷土芸能や東京から招いた演芸が出演され、花火も打ち上げられて、旭市内は近来にない賑わいを見せたのであった。

この“大利根祭り”は、干潟地域と九十九里沿岸地域の人々の歴史的な対立と苦悩の歴史に終止符が打たれたこと、即ちこの地域の人々の“水とのたたかい”が終わったことを象徴するかのような華やかなものであった。

 目次へ

 新たな水問題の出現 ☆

 

利根の引水より塩害が発生

豊作で喜んだ昭和30年も終わり翌31年、新しい水問題の苦悩が生まれてきた、それは8月東幹線富浦線末流沿線の農民が水田20〜30町歩が塩害の被害を受けていると干潟土地改良区に届けてきた。

干潟土地改良区では調査するも塩害とは断定ができず、県の試験場に調査を依頼したが「とにかく塩分が濃い」というだけで、利根川への海水の逆流による塩害とは判定していなかった。

しかし各地からの被害届が続出され、ついに同年10月30日、県も塩害による稲作被害を確認するに至った。同年11月県統計事務所の取りまとめた被害面積は、銚子市14,4町。旭市27,8町、海上町21,3町、飯岡町3,2町、八日市場市153,7町、野栄町108,0町、光町230,7町ということであった。

干害に苦しんだこの地域の人々は、その苦悩からやっと解放されたと思った途端に、今度は塩害に悩ませられる事になったのである。しかも利根川の水が塩害をもたらしたのであるから、その苦悩は一段と深刻なものであった。

もっとも利根川の水による塩害論は、大利根用水問題が浮上した昭和の初期の段階で、反対派の人々が主張していたのであって、当初から充分に予想されることではあるが、通水直後にあらわれず、昭和30年代に入って現れたことは、決して単なる自然現象の作用ということでは済まされない。

 

塩害対策の国への要請

昭和32年5月塩害の被害を受けた農民たちが、富浦小学校に集まり、旭市海上地区被害者農民大会が開かれ、「今後かかる被害の抜本根絶を期せんがため、大利根取水口を、国費により上流安全地帯に変更設置せられんことを農林省に陳情する」事が決議された。

そして昭和33年4月の塩害を契機に、旭、佐原、八日市場、飯岡、干潟、海上、野栄、光、小見川、東庄の香取海匝地域にわたる市町村長が先頭にたって、塩害対策のための陳情運動を展開した。

昭和33年6月、旭中央小学校講堂で利根川下流地域農民大会を開き、政府の利根川に対する長年にわたる治水対策は、農業利水の面を重視しなかったため、利根川下流一帯は銚子河口よりの海水逆流により沿岸農地の稲作は塩害のため、すでに数百町歩が枯死、数千町歩は枯死寸前、数万町歩近くが枯死の危機を迎えようとしている。

この危機を突破する恒急措置は利根本流を堰き止め、海水の浸入を阻止すると共に、上流荒川放水路、江戸川放水路の操作を適切に実施し、本流の流量を増加する以外はない。という決議をあげ、国に恒久対策と緊急対策の実施を要請した。

緊急対策

昭和33年の塩害の衝撃を受けてその秋、茨城県側では常陸川の水門を建設、千葉県側では黒部川淡水化事業の実施が決まった。

この千葉県側の事業は阿玉川水門より10km(利根河口から36km)上流の津の宮に用水機場設置し、利根川の塩分が高いときは笹川の陽水機場の揚水機3台のうち稼動を1台に制約し、津宮から最大6t / Sを取水し小堀川を利用して黒部川まで導入するもので、緊急対策として行われた。

この事業の総工事費は1億4000万円で地元負担は10%、そのうち大利根用水は水量割で6分の3,8の負担をした。津宮用水機場は河口堰完了後には殆ど利用されていない。

 

河口堰の設置

そもそも塩害の直接的な原因は、渇水で利根川流量が減少したことと下流浚渫によって海潮の遡上したことであったが、昭和30年以降、川鉄、両総用水の取水、さらに開発により利根上流地域での東京都、埼玉県の取水などで利根川の流量そのものが人為的に減少したことが、塩害の根本的原因であった。

大利根用水が完成して、椿海干拓の際に設置され、以降300年間千潟耕地の用水源として、重要な役割を果たしてきた袋溜池をはじめとする溜池の使命も終わったとして、これらの溜池の開田化も企てられた一時期もあったが、塩害問題の発生で、溜池は用水源の重要なものと認識されたのである。

国に対する恒久対策の要請は、高度成長期に入り工業用水、上水道用水を利根川に依存することが一段とたかまったことも反映して、昭和36年に至り「河口堰」設置の調査費が付けられ、昭和40年11月から総工費130億円で工事が着工され6年の歳月をかけて昭和46年4月に完成をみて、ようやく塩害問題にも終止符が打たれた。

と各種記録には残されているが、まだ解決はされなかった。昭和50年代は工業用水などの上流部の取水量が多く、利根下流の流水量は絶対量が減っていたので、この堰の当初の管理方法が悪かったためか塩水が上がってきたことが度々あった。

この堰は魚業との関連もあってある程度水を流していたのだが、水の下の層を流すのと上の層を流すのと色々な流し方があったが、その調整が悪く塩が上がってきたのである。堰の管理者を取り替えろと云われた事も聞いている。

上流の利根町布川地先の利根流水量が秒3トンを切るとこのような現象が現れた。

漁業の話が出たが、この河口堰を設置するとき、利根川を漁場とする漁業者が蜆が死んでしまうと大反対をした。この解決のため莫大な保証金が払われ解決されたのであるが、河口堰工事完了後も蜆漁には影響はなかったと漁業者は話していた。

この保証金額がどの位であったかを後の大利根用水農業水利事業関係の会議で質問してみたが、県の担当課長は話を濁し答えなかった。知人の業者は5億円貰った、棚から牡丹餅だ。と喜んでいた。

   

写真 大利根河口堰(潮留堰、橘堰とも呼ばれている)

 

 工場の排水による汚染

干潟耕地の農業の基幹作物は、水稲であるが、畑作においては野菜も東京市場で産地として有名であったが、野菜の栽培は集約的で労力を要するので耕作面積の半分以上は、甘藷、落花生などが栽培されていた。昭和30年代旭市における甘藷の生産は、農業総生産額の2割ぐらいを占めていた。

終戦後国民の食生活もやっと回復してきたこの頃、飴の原料となる澱粉の需要が増加した。それに呼応するように澱粉工場が雨後の竹の子のように現れたが、採算割れで見る見る淘汰され消えていった。しかしこれらの工場や残った工場より流出した澱粉汚泥は、水田の用水路を埋め新川に流れ悪臭を放し、水田の用水にも支障を生じていた。だが今では澱粉工場の姿は見ることができない。

昭和36年6月干潟土耕地の用水源である大願川に、京葉糖業株式会社の澱粉工場より排出された工場排水が流入して、農家が潅漑期であるにもかかわらず揚水することが出来ないという事件が発生した。

早速、関係地域の農家代表と旭市、海上町の産業課長及び干潟土地改良区理事、さらに京浜糖業の関係者が現地視察を行い、揚水不能の状態を確認して、応急対策として大願川上流の水の取り入れ口を1昼夜のうち6時間程度開放し、清水を放流することによって汚水の緩和をはかることが行われた。

干潟土地改良区では、京浜糖業に対して

@ 今後、河川を汚濁することの無いよう措置を講ずる旨の一札を提出すること
A農作物に被害を与えた場合は補償すること
B今後農業用水路に無害の水で流出する際は干潟土地改良区に対し専用手続きをとること
C昭和37年度揚水時までに清澄無害の水にして流出するよう施設を設ける等の要求書を出したが、

農民が納得するような努力は行わなかったといわれている。

昭和38年6月18日、富浦地区の農民たちが旭市長に対して、工場廃液流入による農作物の被害について陳情を行った。それによると、大利根用水路幹線に共和糖化の廃液が流入し、富浦幹線の水は黒色になって悪臭を放ち、川底は不気味な黒色の泥土と化し、裸足では水路の中に入ることの出来ない情況であったという

富浦地区の農家460戸では、川の清掃作業を行い、耕地内への廃水の流入を防ぎ、徹夜で工場側に抗議したが、暫時小康を得ても、依然として汚水流失が後を絶たないという状況であった。

このような事態にいきどうった農民たちは、昭和38年7月、旭市南部汚水対策委員会を組織し、会社側と直接交渉をするよことになった。

この組織は、地元市会議員7名、土地改良区関係者5名、関係区長7名で構成され委員長には旭土地改良区理事長であった飯田庄作が就任した。委員会では

@ 廃汚水は絶対に用水路に流出させぬこと、

A 被害発生の場合は完全保障をすること。

B 汚水硫過の恒久施設の早期実現をはかること。

の3点に要望をまとめ、今後流出を継続するときは、農民側で会社側の直接出口を堰きとめすると、共和糖化に通告した。

このような農民側の強硬な要求や、大利根用水幹線清掃代金30万8000円(清掃人夫1人1日600円)の請求に直面した会社は、従来の方針を変更して廃液を海に捨てることにした。

このため土地改良区の管理下にあった大利根用水三川派線の堤塘に樋管工事をするため、土地の借用を干潟土地改良区に申請したのだが、これまでのいきさつからいって簡単に事は運ばなかった。

旭市長と海上町長が干潟土地改良区に対して三川線の堤塘を共和糖化に借用させるための斡旋を行い、また昭和38年10月から千葉県公害条例が施行されたこともあって県当局も斡旋に乗り出すことになり、結果専用廃水路線は一切の費用を会社が負担して昭和39年3月15日までに完了させる。という覚書が作製され円満に解決された。

 目次へ

 畜産公害の発生により用水が汚染 ☆

昭和30年代までは、有機農業の振興施策もあり、各農家に家畜、家禽の飼育が適当に導入され、農家の副収入と併せて有機質肥料の補給源となっており、また労働力の一部として肉用牛の飼育も普及した。

昭和40年代に入り、農作物についても選択的拡大政策がとられたことと同様、畜産部門についても団地造成等により、専業化、企業化が推進され多頭羽飼育が行われるようになった。(昭和53年までの旭市内の飼育状況は別添えの表でご覧ください)

この結果、多頭羽飼育をされている畜舎から排出されるし尿や洗浄汚水が、浄化処理の不備から用水路や新川に流れ出し農業用水を汚染した。

このような状態はしばらく続いたが、飼料の高騰、輸入肉の増加による外圧に耐え切れず、昭和48年を頂点に牛、豚、鶏の総飼育頭羽数は減少した。特に鶏卵については生産過剰となり、昭和50年鶏卵需給調整協議会を結成、生産調整を始めた。

また、臭気などの問題で周囲の民家にも迷惑が多く、世論に耐え切れず北部台地の山の中に畜舎を移転するものもあり、経営破綻から畜産経営をやめるものも続出した。残存経営者も浄化設備を導入し、し尿による農業用水汚染は殆ど見られなくなった。

しかし、平成の現在でも、役所や土地改良区の休日を狙い土曜日の午後あたりに畜舎の洗浄汚水を新川上流に放出するものがいる。この汚水には薬品が混入されているのか大きな鯉が多数死んで流れてくる。

別表―旭市農林水産業の推移昭和54年版、家畜家禽の飼育頭羽数



                                                目次へ

☆ 大利根用水施設の更新,新川の改修 ☆

 大利根用水受益管内には昭和40年代から県営圃場整備事業が各地区に採択され、多くの農業基盤整備が進められ農地が集団化され作業も大型機械導入に向けた整備がなされたのである。蛇口を捻れば水田に水が入るといった素晴らしい田圃もできたのである。

しかし、中には農村基盤総合整備パイロット事業(矢指地区)(事業費44億9100万円)といった、全国でも数箇所のモデル事業も行われたのであるが、当時の爲政者の権力的な圧力行為により当該土地改良区や県、市担当部局を始め多くの人々が苦しめられたこともあった。

新川の改修

昭和15年大利根用水が新川に入るようになっても、流水機能は充分とは言えなかった。そこで昭和39年から6ヵ年の継続県単事業として、新川上流部、東庄町大久保大堺橋より下流4,300mの、拡幅工事と一部方線変更を、工事費4,550万円で行った。この工事の拡幅用地は圃場整備事業を行い、共同減歩によって用地問題を解決した。

古くから新川の排水をよくするための工事が度重なり行われ、排水はよくなった反面、下流部では水位が下がり干害や井戸水の枯渇などの障害が出ていた。これが対策として数箇所に堰が設けられていたが、これらの堰は何れも旧式であると共に、新川の改修により上下の川幅が拡張され流水に著しく障害となってきた。

そこで干潟堰は、昭和40年4月13日経済企画庁の国土総合開発事業として調整費4,550万円をもって抜本的改修の一環として着工し、翌41年7月竣工した。

続いて駒込堰は、昭和45年事業費1億7,000万円、吉崎堰は、昭和54年事業費3億5,000万円をもって改修を完了した。

大利根用水事業も、多くの苦労を重ねやっと昭和10年に着工し昭和26年に完成、300年にわたる旱魃と水害からの苦しみから脱却すると共に、歴史的問題も解決されたのであるが、その施設も老朽化して各所に決壊や破損、また隋道の落盤などが発生していたので、施設の更新を国営により採択されるよう陳情を繰り返した結果、昭和45年11月21日国営大利根用水農業水利事業として確定して総事業費340億円を投じ事業に着手されたのである。

この事業は途中で3回も計画変更がなされ受益者からは信用を落としたものであるが、第2回の計画変更の際、事業費200億円をもって新川上流の改修と兼田貯水池の設置が追加されたのである。

新川は河川法に定める二級河川に指定されており、千葉県知事が管理者となっている。そこでこの新川を国営として農林省が改修するには、知事と協議しなければならない、直接協議は千葉県土木部河川課及び八日市場土木事務所と農林省国営事務所との間で行われたが、新川改修の中に機場が設置されこれが県管理に予定されていたことと、国営事業と同時に八日市場土地改良事務所の行う県営事業でも計画変更により七間川改修を取り込もうとしていたので県農林部耕地一課と八日市場土地改良事務所も、随時協議に加わる形で進められた。

最初の協議は昭和53年11月に行われ、国営事業者から事業概要と新川改修概要が説明され、河川課からは新川の中小河川改良計画の概要が説明された。その後国営事業の変更計画内容が固まるとともに、協議は本格化した。

この協議は、排水計画全体から個々の施設に至るまで、様々な事項が論点となったが、中でも大きな問題は、県土木で定められていた新川の改修計画と国営計画との整合性であった。

これらの協議は、慣例から見て協議成立までにはかなりの日時が掛かる、護岸改修と機場設置を一体的に進めていては緊急性を要する護岸工事の昭和55年度着工予定が危ぶまれ、護岸工事の協議を先行して昭和55年6月に行い基本的な了解を得て、同年8月5日付けで農林大臣より千葉県知事宛に協議文書が提出され、59年7月14日付けで同意された。それから護岸工事の工事年度と区割りを決め入札、業者決定、工事開始となったのである。

機場の設定は後回しとなったが、この機場は上流より下流に強制排水する機能と、用水の反覆利用をするする機能を備えたものでこの協議は大変であった。

排水に係る協議では、河川法において上流から下流への機械排水を土地改良事業として実施することの是非、ついで護岸改修事業同様県土木部計画との整合性、更には下流にある吉崎堰、駒込堰を含めた新川の排水管理体制について協議された。

この結果機場、新川堰、駒込堰、吉崎堰を一括管理することが求められ、機場において遠隔操作などで一元的管理に必要な整備を行うこととなった。

また用水に係る協議は、反覆利用をすることによる反覆線用水路を河川敷内に埋設することや、下流への水質悪化問題、水利権の問題で長期にわたる協議が行われた。特に水利権取得に係る協議は多大な労力を要した。

笹川揚水場における10,33t/Sの水利権が更新時期を迎え、新川と笹川の水利権は一体であることから両方の協議が同時に進められた。

笹川からの取水に係る総量規制問題や、減反による余剰分を新川下流部並びに大布川の水質悪化に伴う反覆利用可能量の減少分への振り替えたことなどについて論議されたので協議は長期化せざるを得なかった。

また完成後の土地改良財産の財産権の問題もあり、利根川の水利権はそのまま県知事とすることには合意されたが、新川の水利権者については依然として合意の見通しが立たず、更に協議を重ね、最終的には平成3年11月6日付を持って千葉県知事の同意を持って農林水産大臣が水利権を取得することになった。そして新川機場工事が着工され平成4年度に新川改修事業は総て完成したのである。

またこの干潟耕地には、平成7年度に新規創設された広域農業基盤緊急整備促進事業が着手され2350haの農地の再整備が行われており、時代に適応した大区画の美田に生まれ変わりつつある

  

         写真 新川改修時整備された兼田貯水池

 



☆ 新川回顧 ☆

 椿新田開発以来干潟耕地の排水路である新川に大利根用水の水が入ったのは昭和15年からであるが、その当時からの新川の様子を脳裏に思い浮かべてみたい!

新川の堤防にはトップページの写真にある様な樹齢200年を超える古松が茂っており何とも言えない風情があった。しかし新川中流部の松は、防空壕の材料や航空燃料エタノールの原料として伐採され、太平洋戦争と共に消えていった。残された古松も平成8年までに松食い虫の被害にあい皆無となってしまった。今も瞼に浮かぶのは新川に枝を伸ばし水面に影を落とした古松の面影である。

 

樹齢200年を超える松 

昭和30年代ごろまでの新川は、それはきれいな水の流れる川であった。生活物資も捨てる程なかったし、できても家畜の餌か、堆肥の原料として使われていたので川に捨てる人は無く水はきれいであった。

5間川と7間川の合流点から上流は水深が浅く1m以下であったので澄んでいて川底が見えていた、所どころ川藻が茂り川藻の間を掻い潜るように小鮒、メダカ、タナゴ、子鯊などの小魚が泳いでいた。夏の日には子供たちは川藻の無いところで水浴びを楽しんでいたものだ。

琴田の水田地域に入ると特有の泥で川底も泥深く、どのくらいあるか解らないほど深かった。そして夏場は一面に川藻が茂っていた。

合流点から下流は水深が2m位あり水がひんやりと温度が低く、船をこいでいても落ちたら大変という気分になる。我が家では当時新川下流3km位離れたところに農地があったので舟が輸送用具であった、秋、稲を積んで帰る途中イナが舟に飛び込んでくる。3k帰る途中10匹ぐらいは飛び込む、

しかしこの頃、この「イナ」を食べることを知らなかった、煮ても焼いても美味くなかった。或る時、朝鮮人部落に焼酎を買いに行ったときのことである。利き酒といって茶のみ茶碗に焼酎を1杯、それにイナを開いて骨をとり塩を振り、1夜干ししものを炭火でサット焼いて出してくれた。その味の良さ、焼酎にぴたりとあっていた。

それから、何度かイナを捕りに行こうと思ったが、とうとう行けなかった。行く暇が無かった。その後住む魚も替わり、蝦蟹が繁殖していたが、やがて居なくなり、食用蛙やカモチンが多く繁殖したときもある。利根用水と一緒に総魚が汲みあげられ住む様になったが、その総魚も新川の汚染と共に姿が見えなくなった。今では大きな鯉と鮒、春からイナが集団で泳いでいる。夏の夕涼みに見られた蛍も今は見られない。

新川の汚染は、日本の神武景気以来生活雑排水による汚染が多くなった。特に市の中心部から排出される都市排水は新川下流部を夥しく汚していたが、都市下水道の整備で段々と少なくなってゆくことだろう。

このようにして新川の改修工事は国営事業と県営事業により改修され様相は一変した。用地買収が困難な事もあり現用地内に納めるように拡幅工事をした関係の箇所もあり木の茂っていた堤防はなくなり一部は鉄板矢板の堤防となり自然の面影が無くなった。

しかし、稲作期には満々と大利根の水を湛え、水田には安定した水が供給されている。また一旦台風の来襲で雨量がいかに多くとも強制排水を掛けると農地は勿論、一般家庭でも洪水による被害はなくなった。

   写真 新川改修事業により完成した楊排水機場を下流より望む


大正末期の新川普請、寄洲投げ込み工事





     
―― 大利根用水のお話終わり ――

       目次へ

                

2012年11月5日更新