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椿新田・琴田村

 
窪地の新田村

寛文年間幕府による椿海の開発は一時に多くの村を形成せしめたが、琴田村もその一村として「江ヶ崎村下」という呼称から独立して「琴田村」と呼ばれる新田村になった。それはおそらく元禄期の新田検地の実施された直後の頃と考えられる。

 しかし、琴田の地は、椿新田の村々の中にあっても、最も窪地の村であったため、耕地化は遅れ最後まで中州、湖水の一部を残して、現在のような美田とは程遠い状況にあった



写真 現在も残る総堀(琴田地崎

元禄8年(1695年)椿新田総検地に際して琴田村も検地を受けたが、今その検地帳は発見されていない。しかし元禄検地の状況をほぼ知ることの出来る「琴田村石盛写帳」によれば、元禄8年による検地で村高1839石余が確定し、まだ耕地化されない葭間、芝間に至るまで石付けがなされ、近隣の村々から移住者が定着し始めた。

彼らは檀家寺を自分の古村に残してきたままであるが、特に入野村、諸徳寺村、鏑木村、溝原村、太田村などの出身者が多かった。のち延享3年(1746年)椿新田の村々は天領(幕府直轄地)と私領に分かれた。

琴田村は、佐倉藩預かり所となり、佐倉藩主堀田相模守正亮の管轄するところとなったが、還暦11年(1761年)再び天領となり、明和四年(1767年)安中藩主板倉勝清の老中就任に伴い、琴田村も安中藩の所領となった。

以後寛政2年(1790年)村高にわずかの増加があり、合わせて1893石余となって、明治4年廃藩置県に至るまで安中藩の支配が続いた。


                           度重なる旱魃と水害                            

琴田村は、低地ゆえ耕地化の遅れは著しく、非常に不安定な生産力のもとに出発した。耕作できる耕地は少なく、悪地下々田、草間、芝間の占める割合は極めて高く、村の石付面積の80%にも及んだ。これは上田、中田など比較的安定した生産力を持つ耕地が極めて少ないと言う事である。

村の西北、字四番割より流れ出る7間川、5間川も旱魃には川底をあらわし、ひとたび降雨があれば
「湖水満々と住居を浸し、その状態はあたかも草藻上に棲息するが如き」状況であったといわれる。領主への運上には、年々真鴨数十羽の上納が命ぜられているが、いまだに鴨が飛び交い、また漁業の利ある土地柄でもあった。

しかしこのような中にもより安定した耕地化への村民の苦闘は続けられていった。特に天明4年(1784年)の凶作が激しく、琴田村では年貢米の運上が出来ず、やむなく夫食米の借用を領主に乞い、その借用した米を年貢として上納しなければならなかった。しかし夫食米を借用するためには、農民の代表者は自分たちの屋敷添の土地を1反歩づつ質ものとして抵当に取られたのである。

その後間もない寛政3年、琴田、高生村は再び凶作に見舞われ、領主にその実情を検分してもらうために、役人の検見入り願いを提出している。この年の琴田村は凶作が著しく、二、三番割りは塩入で稲は穂が出なかったという。このような度重なる凶作をどのように乗り切っていったのか、それは解らない。

椿新田開発直後の元禄期には1町歩5両で売り渡された新田は、18世紀末の天明、寛政年間には17両で売買され、さらに文政元年(1818年)には45両で質入される土地も現れる。このような地価の高騰は、そのまま土地の生産力の上昇としてとらえられない面が幕藩制社会にはあった。

文政11年頃の琴田村の戸数は118戸、人口603人であった。このように近世中期以降は、安中藩板倉氏の支配下にあった琴田村の状況をさぐる史料は乏しいが、その特徴の一端を窺い知ることは出来る。

椿海の水を抜き、その後の耕地化に営々と努力を続ける農民に、領主は鴨の献上を命じ、天明の飢饉に際しては、借用した扶助食を年貢として取り上げ、また嘉永元年(1848年)娘の結婚に当たっては、特別に50両余の調達金を村に課している。ここには一見悠長に見えながらも、非常に厳しい年貢徴収の姿を見ることが出来る。


年貢延納の要求

琴田村をはじめ椿新田18ヵ村は、新川の排水権を守るため、しばしば下流地域と争ってきた。これらはいずれも椿新田18ヵ村が、新川の川浚いの義務をもっていることを認めさせるためであったが、その代わり自普請を中心とする川浚いは並大抵のことではなかった。弘文4年(1847年)に川浚いが行われたが、そうしばしば行えるものではなく、その後明治4年まで川浚いはついに実現されなかった。

この間、椿新田中最も低地であった琴田村外5ヵ村(清滝、春海、関戸、入野、万才)の窪地6ヵ村は、多くの水害に悩ませられ続けた。このような状況の中で、幕末の琴田村は、戸数が137戸で130石余を所持する一戸を除いて、5石以上15石以下の中農層が全体の62%を占める純農村であった。

排水権を守るための訴訟の費用や、自普請川浚い費用の増大、しばしば起こる水害による凶作、その上の年貢の負担は楽ではなかった。農民の生活をより一層圧迫する要因となり、これは維新を迎えても変わるものではなかった。

前年の年貢が収めることが出来ず、村役人宅へ呼び出され厳しく責められるものもあったが、年貢を納めることの出来ない人は大勢いたのだ。明治7年には年貢の延納を要求して琴田村民120人が立ち上がった。

総代の農民たちは、農総代の役宅へ出向き、年貢延期を新治県へ出願せよと迫り、もし出願をしないならば「農総代名義を取放す」と、強行に要求した。農総代たちは仕方なく要求に応ぜざるを得ない状態であったし、農民たちの代表2名は県庁まで出向いていった。この一件は、副区長、戸長、その他村役人たちの漸くの説諭で落着することになった。

 


地租の改正

明治政府が行った大事業の一つに、明治6年から始められた地租改正があり、これは従来、年貢が原則として現物であったものを、貨幣による地租に転換させたことである。

土地に対する租税額=地租は、まず官有地、民有地の区分を明確にし、土地の面積を調査し、地位等級を決め、地価を算定して決定されたもので、これらの作業の最終段階は、県官が派遣され、地域の地租改正総代人と、各村から投票で選出された地租総代が立会い、官の評定を経て、各村の請印提出で一段落するわけである。

明治9年、この新しく決定した琴田村の地租は、土地面積で80%が新しく増加され、前年の年貢に比べ約262%も多く徴収されることになった。これは、琴田村の宅地、耕地の地位等級が付近の村々より著しく高く評価されたことにある。

このように付近の村々より倍額に近い高さの地価の算定を受けなければならなかったのか、それは、地位等級の調査にあたり琴田村の地主総代が「地価の等級は高きを善とす、と誤信し」清瀧村の10等が琴田村の6等に相当すると主張したためだと言われているが、近世中期以降の琴田村の土地の売買価額が付近の村々のそれよりもかなり高かった状況があった事が地位等級、地価算定の評価を吊り上げる結果を招いたものであろう。

たまたま明治9年は、琴田一体はひどい水害にみまわれ、県当局も無利息10ヵ年賦の救助金を貸与せざるを得ない状況であったため、琴田村民の不満は納まるはずがなかった。そこで明治9年より琴田村では周辺村落をも動かし、田畑の地位等級の引き下げ運動を展開してゆくことになる。



土地の地位等級降格願いの提出

千葉県では第16大区(海上郡)に対し、明治11年8月等級地価の算定が完了した旨の布達を出した。一般的に県の算定に対し各村の請印(承認)手出によって決定されるわけであるが、琴田村では県の布達が発せられた同じ8月に、請印提出を拒否すると共に、いくつかの理由を付けて「地位等級降級願」を県に提出した。

これによると、琴田村の土地は、干潟18ヵ村の中でも最低湿地の部に属し、ひとたび降雨の際には雨水が停滞して田畑の別なく暴流が溢れ、稲、麦は腐り、また数日の旱魃ともなれば水利が渇耗し、水、干両害がひどい状態である。

地租改正は土地の広狭肥痩を明らかにし、租額の公平を正し、人民を案じせしむる御旨意であるものと感銘していたが
「図ラザリキ意外ノ過獲米」に評価されて等級を引き上げられた。その不公平を正すよう地位等級を引き下げて欲しい。というものであった。

県では、8月20日付けで、当第16大区は勿論、第15大区と比較しても不公平は無いとして願いを却下すると共に、11月11日県官が大田村へ出張した際、一部の農民(琴田村西組)を出頭させて尋問し、県の算定に対する
「了解請書」を提出させた。

この一方的な県の切り崩しにあった琴田村では、東、中両組を中心に反対運動が盛り上がり翌12年2月に地位等級了解請書の取り消し願いを提出するが、県では直ちに願書不採用を決定する。これに対して琴田村では、地租不納でもって対抗すると同時に、反対運動が政治的運動として結実し、その後明治期全般を通じて海上郡の自由民権運動を推進してゆく政治家を琴田村から輩出させる結果となった。

県では、等級引下げ運動への説論をいろいろ行ったが、屈服しない琴田村に対して明治13年11月2日、太政官布告(等級を一方的に決定できる条あり)をたてに、一方的に等級地価を決定し納税を申し付けた。琴田村では、訴訟に訴える財政的負担に耐えられず、県の決定に服従せざるを得ない立場に立たされたが、地租不納は依然として続けられ、明治11年から15年までの累積は1200余円に達した。

この事態に直面した県は、大蔵省の許可を得て、未納地租1200余円を15年賦で納入させるという議案を、19年度県会に提出した。県会では他地域の議員から猛反対を受けたが、結果はこれが可決された。


当時県では、租税未納に対しては財産公売処分を行う場合が多かったが、琴田村への地租延納措置を発議したのは、調査の不備を県自らが感じていたためではなかろうかといわれている。

古老の話として伝えられるところによれば、琴田沖の低湿地帯では、地味が悪い上に地租が高いため、田の売買に当たって田1反につき田舟1艘を余計に付けても買い手がつかなかったという。地租の高さを示すものとして興味ある話である。

琴田村は明治4年新治県の第4大区小2区に編入され、同8年千葉県に移管後は、第16大区10小区となり、11年法律改正に伴い大区小区制が廃止されてからは、琴田村と高生村とが同一強制単位として連合村を組み、17年行政単位の拡大によって琴田、江ヶ崎、高生の連合村が構成された。それから嚶鳴村への基礎は、徐々に築かれてゆくわけである。


寺院と神社

         

海宝寺

字廿間にある。真言宗で太田高蔵寺の末で福聚山と号する。

延宝9年(天和元年、1681年)高蔵寺17世宥範の法嗣慶範が、鎌数字下新田において開基、元禄4年現在の地に移した。

慶範は、下野国彦間に生まれ、真言、律の学僧である。下野国佐野大聖院の住職であったが、後高蔵寺、ついで海宝寺の住持となった。その後越前国滝谷寺に入り、その寺を中興、元禄元年(1688年)退隠して下総に移った。

5代将軍徳川綱吉の寵臣柳沢出羽守吉保は、深く慶範に帰仰して江戸神田橋門内 上屋敷御成御殿の付近に慶範のために智宝庵を建てた。この庵はのちに福勝院と改称され、吉安の祈祷所である。

慶範の弟子定心は、慶範に従い元禄12年(1699年)まで勝院に在住し、この間将軍綱吉に易経を講義した。慶範は元禄12年10月9日、64歳で入寂。御室真乗院の前大僧正孝源より贈られたという如意等をはじめ、遺愛の品々と共に、慶範の遺骸は海宝寺に送られた。


定心は、その後上野国高崎大深寺に移り、この寺に永住した。大深寺は朱印300石の律宗の寺院である。

  


写真 海宝寺の山門と本堂

 

                 

八幡大神

 八幡大神は、字ヤナベにある。祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)で、勧請年月日不詳、旧嚶鳴村社



写真 八幡大神


琴田村の民俗

祭礼

琴田地区のお祭りは、2月、6月、9月に行われているが、一番重視されているのは、「セエイレン」と呼ばれている2月7日の祭りである。前日の2月6日に大般若経を担いで各戸を廻る行事である。「村祈祷」が行われ、当日は各戸で御馳走をつくって、農作業を休む。

2月8日は琴田地区の周辺では、「大般若」の行事が行われているが、琴田地区では2月6日の行事がそれに相当するもので、2月8日は「堂参り」と称し、各戸の代表が海宝寺、真福寺、幸蔵寺を廻る行事が行われている。

 

祇園祭

八幡大神のお祭りで、神輿を出して若い衆が担ぎ地区内を廻りのち、神社の境内で賑やかに祇園祭が行われる。この祭りが何時から始まったものかは解らない、昭和の初期は新町祇園が7月23日、琴田祇園が7月15日隣同士で、お互いに応援しあった記憶はあるが、この祇園祭の歴史記録については見たことがない。

 

遍照講

琴田地区を含めて、旭、八日市場地区一帯で広く行われている弘法大師に対する信仰の一つで、年1回4月4日から4月13日の間行われるもので、おおよそ60歳以上の男女が遍路姿に身をかえ、地区内の88ヵ所の礼所を廻る行事である。琴田地区では今でも多くの老人たちが参加している。

 

犬不動

西琴田の斉藤長太郎は、香取郡良文村(現東庄町)阿玉神社の神主から子犬を貰い、”かめ“と名付けて、とても可愛がって育てた。”かめ”はたいそう利口な犬で、主の命に良くしたがって大きく成長した。ところが、大正2年ごろ偶々県下に狂犬病が流行したので、県当局は野犬の取り締まりを強化した。

嚶鳴村駐在所の警察官は同年7月、“かめ”も取締りの対象となるとして撲殺を命じ、飼い主は泣く泣く命に服して、猟銃家に頼み射殺させた。余りにも憐れであったので射殺された場所に手厚く葬った。

その後“かめ”は、主人長太郎夫婦の枕元に3晩続けて現れ、「私はどんな俗世の因縁か犬に生まれてきたが、精神は人間と同じです。今回は無残な最期を遂げたが、魂魄この世にとどまり、多くの人の難儀を救いたい、」と訴えたという。そこで長太郎夫婦は“かめ”の菩提のために、ひそかに香華を供えてやった。ちょうどその頃、隣家の斉藤弥治右衛門の叔母で東京に嫁いでいた“けい”という人の子供が、原因不明の病で腰が立たず、各所の医師に見放され西琴田の生家で療養をしていた。


けい”は“かめ”の一件を知り、犬は子供の守り神という言い伝えを信じ、一生懸命“かめ”の墓に日参した。ところが不思議にも、かの子供の難病は見事に全快した。そこで“けい”は、霊験の卓絶なお礼として「犬神不動尊」の碑を建立したが、この話は近郷近在に知れ渡り、多くの人々が連日参拝するようになった。

大正3年ごろから約半年間は、多いときは1日数千人の人々が押しかけたといわれ、また毎月戌の日には、未明から多くの人が来て席も無いくらい込み合い、線香の煙は天を焦がすほどで、塔婆は席の無いほどたてられたという状況で、5軒ぐらいの出店も出ていたというところが参拝禁止という警察当局の厳しい取り締まりに合い、長太郎夫婦は犬の遺骨を他所に移し家族だけで信仰することとした。

それでも、ひそかに近在から訪れる人は絶えなかったという。昭和38年まで犬の墓は、西琴田にあったが、斉藤氏の子孫が当時の香取郡栗源町に移転したので、このとき犬の墓も移転し斉藤家の氏神様として祭られたと

 写真 犬神不動尊参拝に集まる人々(大正期)

 

椿新田の中でも一番の低湿地で、旱魃、水害に見舞われていた琴田村の水田も、現在では国営事業による新川改修が完成し、新川には利根川の水が引かれ、排水もよく、また農業基盤整備事業の完成で見事な水田地帯となっている。

 





























写真は現在の琴田地区の新川と水田

 

 

























―― 椿新田・琴田村終わり ―――