☆関東平野は海のところもあった☆
今から1万年余り前、マンモスなどが住んでいた寒い第四氷期(氷河時代)が終わり、温暖な気候が地球上を支配し始めると、海面が段々と上昇してきて、大きな川沿いに海水が上がってきた。専門家はこれを海進といっている。 川沿いに上がってきた海水は低地を伝わり、じわり じわりと奥地に侵入した。現在の海面と比べ10m〜15m位上昇したといわれている。日本では縄文海進と呼ばれており関東平野も下図のように海の中に沈んでいった。 現在の海岸の汀線と比較して見て下さい。 九十九里平野も、勿論この平野の一角にある干潟八万石の一帯も海になっていた。 利根川も栃木県の方まで海に入り込でいた。 この頃、人々は洪積台地の周辺に広がる、遠浅で波の静かな入り江の周辺近くに住んでいた。そこは貝や魚が豊かだった。縄文人は土器など新しい生活の技術を持って、縄文文化の時代を築いていったのです。 千葉県教育委員会の千葉県埋蔵文化財分布図によると、椿の海周辺では次のような史跡がある。 ◎ 匝瑳市飯高貝塚(縄文前期) ◎ 香取市城の台貝塚(縄文早期) ◎ 香取市阿玉大貝塚(縄文中期、国指定史跡) ◎ 香取市良文貝塚(縄文後期、国指定史跡)
海退に伴い九十九里海岸の砂丘列が次第に海に向かって形成されていった。この砂丘列の前進に伴って、陸地は段々広くなって来たが,今から2200年〜2300年前の弥生時代は。平野の大部分は海の名残の湿地が多く、人の住めるような状態ではなかった。 それから 時がたち、何時頃から人が住み着き、纏まった集落が出来たのかははっきりしない。しかし、南の方の砂浜につながる平地、北には浅い椿の海がある温暖肥沃な土地だったので、奈良時代(710〜794年)から次第に砂丘列に人家が出来てきて集落となり、湿地や沼地を耕地として農耕を営むようになったといわれている。 旭市の南部には奈良時代,大田卿、辛川卿(現在の足川か?)などの卿名が見えるようになり、やがて平安時代から砂丘列の上に幾つかの纏まった集落が出来てきた。特に椿の海に近い砂丘列の上には東西を結ぶ街道が自然に出来て、其処に泉川、井戸野、大田、成田、網戸などの村が横一列に連なるようにして人家が纏まっていった。 したがって壬申の乱(672年)で敗れた、弘文天皇の妃の耳面刀自媛(みみもとじひめ)を奉じて下総へ流浪してきた中臣英勝達やその子孫が「椿海」の周辺に住み着いたのは、かなり早い時期だったのだ。 ずっと時代が過ぎて鎌倉時代、この頃までは九十九里海岸の東端、飯岡の刑部岬は今よりずっと海中に突出したらしい、吾妻鏡、鎌倉大草紙などによると、この刑部岬には源義経の臣、片岡常春の佐貫城があったという。
「椿海」と呼ばれたこの湖は、東西12Km 南北6Km 周囲40Kmで この湖は、周囲の台地からの落水を受け、満々と水を湛えており、永い間、九十九里平野の農地に、農業用水として利用されていた。 (周囲の岸辺は、湿地帯で,測り方によって、資料により多少の違いがある。) ☆ 椿海の伝説 ☆ 日本には昔、下総の国の椿、長門の国の楠、丹波の国の栗の3本の大きな木があった。 下総の国の椿の燃えるような花の下に、何時しか悪神が住み付き人々に悪行を働いていたので、香取、鹿島の神々が、この椿を抜き取った、この椿の抜き取った跡に出来たのが「椿海」だという伝説がある。
豊臣氏が滅び、徳川の天下が固まり、長い間続いていた戦乱もようやく収まった頃、 この男は、寺に居候をして、 彼の頭の中は、今壮大な計画で一杯なのだ。 この広々とした湖の水をすべて海に流す、 この男は、杉山三右衛門といったが、 この男が元和年間(1615〜1623年)に、
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