椿海の干拓が進み、田畑が開墾され、新田内に多くの集落ができて、元禄6年(1691年) この 宿場町として復活 当時九十九里浜沿岸の村々に、多くの鰯が水揚げされるようになり、そこで作られた干鰯や魚油、〆粕などが、馬の背により利根川河岸へ送られ、高瀬舟に積み替えられて江戸や関宿の問屋へ送られるようになった。 このように街道を中心に町場化してくると、この村の農業にも変化が起こってきた。今までのように米麦を作るばかりでなく、瓜や西瓜、薩摩芋、桃などを作り、小見川や佐原の問屋に送って売り捌き、また棒手振(ぼでふり、行商人)によって近在の村々へも売られた。 そしてこの様な商品作物を栽培する肥料も自給の草薙堆肥ばかりではなく、干鰯のような金肥が使われるようになり、この村の農業は、他の新田村とは異なり、田畑の面積が狭いということもあって、集約的商業的な農業に変わっていった。
そこで3社地を3名が寄進し、 また「椿新田開発記」所収の明細帖によると、毎年2月7日妙義、稲荷社で、6月23日牛頭天王社で、それぞれ祭礼が行われたとある。明治6年の「書き上げ」によると牛頭天王社の後身である八雲神社の祭礼は毎年7月17日に行われるとしている。 写真 祭りの民俗 八雲神社の祭礼も6月23日に行われていたが、何時の世からか明確ではないが、農作業の都合か7月23日に行われるようになった。 しかし祭礼の月日は今でこそ太陽暦の新暦を使っているが、昔は旧暦であったので、幾分違いはあると思われる。 以前には祭礼は3日間行われ、神輿が担ぎ出され盛大に行われていた。 神輿は小南の神社のものから分かれたとの言い伝えもあり、以前は青物が出来ると毎年小南の神社に届ける習慣があった。 この祭礼を祇園祭と称し、宵祇園、本祇園とも神社で祭典が行われた後、午後1時ごろ神社を出た神輿は、神官、氏子総代、区長などを先頭に、世話人に警護され、賑やかな笛太鼓と掛け声とともに、 夕食を済ませてからは、当番部落の神社など(上町は威光院、仲町は それが昭和の末ごろからは、社会経済の発展とともに自動車交通の増加により、道路使用制限も厳しくなり、御巡行以外は道路の使用は許されず、警備の関係からも時間が制限されるようになった。 又一方、少子高齢化で神輿を担ぐ若い衆が少なくなり、御巡行だけで精一杯、勤め人が多くなり、祭礼や祇園祭の日にちも土曜、日曜と変わってきた。また見物人もパラパラ、元気の無いお祭りになってきた。 |
写真 八雲神社の祭礼祇園祭
椿新田の村として、 これは、周辺の人々が新田村に入りこんだことと、それらの人々が親村居住時代からの信仰を絶やさないで、新田村にもたらしたことを反映している。 幕末の万延2年(1861年)3月の宗門人別改帳によって、 この4寺庵の明治5年ごろの記録は次のようになっている。 威光院(天台宗) 正当山と号し、宝永7年(1710年)10月永命寺19世 珍栄の法弟権大僧都栄範が開基。明治2年以前から無住となり、本寺永命寺住職良田が兼務することになった。村方唯一の祈願所である。明治7年4月廃寺となり、その後寺址は小学校となった。 善心庵(天台宗) 明和5年(1768年)7月 善心が開基。庵主は貞栄。貞栄は小南村農 柳堀元右衛門の次男。安政5年(1858年)3月、小南村円覚山蔵福寺において得度。元治元年(1864年)4月入庵。65歳。 薬師庵(新義真言宗) 寛延3年(1750年)2月 定貞が開基。庵主は尼智円。智円は武蔵野国埼玉郡手古林村 篠塚常右衛門二女、明治元年2月琴田村海宝寺において得度。同年4月10日入庵。59歳。境内の薬師堂(現在「あかんどう」と呼ぶ)が現存する。 享保16年(1731年)10月 光椿禅師が開基。10年以前から無住となる。(以上は明治5年8月の「本末寺院明細取調帳」による、) また「 明治43年になり、村内に妙福寺(日蓮宗)が建立された。これはもともと 徳川幕府が倒れてから、天領だった 幕府が倒れたといっても、問題が順調に解決した訳ではない。特に土地の生産力が低くて耕地の少ない すでに幕末から不作にあい、「扶助助成」や米の安値販売を領主に申し出ているが、明治に入ってからも元年に起きた水害に、強力に救米助成の願いを菅谷県に願い出た。県では「極々困窮人」34人に対し、一戸3升から5升の援助米を貸与している。 34人といえば また、明治5年に新治県から出された小学校設立の指示に対して、当村では困民数多で小学校を設立しても、入校に差し支え勝であるので、当面禁止された家塾(石毛彦右衛門)を許可して欲しいと、嘆願書を提出した。 しかし、この 学校の設立 ところが明治8年12月、学区編成替えによって、入野、関戸、溝原の3ヵ村は26番中学区へ編入され、27番中学区の 連合村の形成 明治15年には鎌数村の人々も可也の寄付をさせられ、 しかし学資金を半強制的に出金させられ、これを1割の利息で借り受けなければならない立場にあった村内の富裕層にとっては苦痛なものであった。 また貧民層には、授業料の支払いが苦痛であり、そのため就学率は芳しいものではなかった。特に女子の就学率は極端に悪く、明治15年では学齢児童のわずか15%に過ぎなかった。 新町村における学校の設立も、他校の場合と同じく、当時の国や県といった上からの近代化政策の一環として、多大の住民負担の元に強行されたものであったが、しかしそれだけでは決して今日の学校の基礎は築かれるものではなかった。 明治10年、同17年の2度にわたる県の中央集権的な教育行政方針によって、 教育を求める村民に支えられて、次第に
その後明治39年2月農業補習学校を附設、同年11月13日共和小学校開校記念日の祝祭を行い、以後11月13日を学校の記念日と定めた。 又次のような共和小学校開校記念の歌が作られている。 共に和らぐ我が里の,同胞集ひいそしみて 今この歌を見て、頭の奥のその奥の片隅に、かすかに断片的に記憶が残っている。6年間の在校中に教えていただいたものか?誰かに聞いたのか?? その後、共和村多年の懸案であった校舎改築が実現して、明治44年10月16日、現在の位置(新町771番地)へ移り今日の旭市立共和小学校の前身を築いたのである。この敷地面積1,780坪、落成経費7,000円と言われていた。
―― 椿新田、
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