約1300年余り前、近江の国大津の都で、戦いに敗れた天皇のお妃(きさき)が、海路を逃れて九十九里の浜辺に着き、そこではかなくも短い生涯を閉じられたという伝説がある。 現在、旭市泉川にある内裏神社はお妃を祀り、隣の部落駒込にある日月神社は皇室の象徴である日月の旗を祀ったものという。又近くの大塚原にある小丘、大塚原古墳はお妃の墓といわれている。 弘文天皇妃を祀る内裏神社(旭市泉川) 天皇とは天智天皇の子、大友皇子(明治3年、弘文天皇のおくり名が与えられた)で、叔父の大海人皇子(後の天武天皇)と皇位を争った壬申の乱(672年)で敗れ、大津市山前で自害された方である。(日本書記による)又一方上総の国に逃れたとの伝説もある。君津市小櫃の白山神社は天皇を祀り、其の後の古墳は天皇陵であるといわれている。
弘文天皇妃陵墓(旭市大塚原) 長い間この大塚原の盛土は、野手の内裏塚を望む遥拝所であると考えられていたが、明治24年偶然にも盛土が崩れ、若干の人骨と墓石と見るべき石面に「連金子英勝」(むらじかねのこあかつ)と刻まれているのが発見された。 つまり、壬申の乱の首謀者として処刑された、近江朝廷の右大臣と言う重要な職にあった中臣連金(なかとみのむらじかね)の子の英勝とわかったのである。この墓石文字によってお妃を奉じて下総へ流浪してきた関係が、伝承の域を超えて人々の関心を引いた 大塚原古墳に立っている英勝の墓石(後の古い墓石が出土した墓石) 水成岩のため、風化摩滅して今は文字を読む事はできない 古墳の発掘調査 33年おきの御神幸祭 お妃の逝去より約650年後の元徳2年(1,330年)中臣英勝の子孫にあたる明内常義が、お妃の霊を慰めるために御神幸祭を始めたという。(記録に残るのは文化4年(1807年)からである)33年に一度、お妃の命日の9月23日に大名行列さながらに神輿を中心にして、沿道で踊りなどを披露しながら、お妃の上陸地野手内裏塚浜まで神幸してゆくのである。 最近では平成15年に行われている。この様子は次の写真を御覧下さい!
お妃のことに対して、氏子、地元区などは親子代々、永年にわたって、陵墓の整備、御神幸の費用負担など尽くしてきた。ともあれ、古代史最大の政争にからむだけに、この下総も何らかの関係があったと見るべきであろうか、いずれにしても古代のロマンであり、興味深い郷土の伝説である。 |