木曽から来た戦国武将

 木曾谷を支配していた木曾氏が、旭の地を支配するようになったのは、今から約400年もの昔である。其の支配期間はきわめて短いものだったが、いまだに其の面影を伝える遺跡や遺墨があり、旭の地名の由来ともなって市民生活に溶け込んでいる。
この戦国武将木曾義昌公にまつわる1ページを御覧下さい。


 

        木曽義昌公の銅像(千葉県旭市網戸、木曽義昌公史跡公園)


                木曽義正の栄光

木曾義昌は、天文9年(1,540年)木曾福島城主木曾義康の長男として誕生、幼名を宗太郎と呼ばれていた。

当時、木曾の豊富な美林と交通の要所を押さえていた木曾氏ではあったが、その弱点は、山国であったために水田と領民が少なかったことである。水田と動員兵力を確保するためには、松本平や三河地方への進出が課題であった。しかし、周辺隣国はいずれも強国であったので、義昌の生涯の大半は、隣国との駆け引きと戦いに明け暮れた日々であった。

弘治元年(1,555年)隣国の武田信玄が来襲してきた、木曾氏はこの戦いに敗れ、義康の娘 岩姫 を人質として武田氏に渡した。木曾氏は源義仲の流れを汲むと称する木曾の名族であり、美濃と信濃の国境の重要地域を押さえていたため信玄は、義昌に三女の 真理姫 を娶わせて親族衆として遇し、木曾氏は武田氏の力を背景に次第に支配力を木曽谷に確立していった。

その後、信玄の時代は忠実な家臣として活躍したが、その子武田勝頼とは仲が悪く、義昌は武田氏から命じられる軍役負担の尋常ならざる重さと、勝頼の人望の無さから、織田信長の誘いに応じ、織田信忠(信長の長男)に弟の上松義豊を人質として差し出し、織田氏に寝返った。

義昌に不信感を抱いていた勝頼は、義昌の謀反を知らされると、これに激怒し従兄弟の武田信豊(信玄の弟・武田信繁の子)を先手とする木曽征伐の軍勢5000余を先発として差し向け、さらに人質の岩姫を見せしめのため処刑した。そして勝頼自身の軍勢1万5000余も出陣し、木曾に攻め込んだが、義昌は織田信忠の援軍を得て、鳥居峠で武田の軍勢を撃退した。

其の年勝頼は、織田信長の軍が甲斐の国へ攻め入ったため、新府城を捨てて天目山に走り、そこでさしもの武田氏は滅亡してしまった。

義昌は織田信長より、深志城(後の松本城)を与えられ、信濃の国筑摩、安曇の領主として君臨することになった。ようやくにして水田の広がる松本平を手中にした義昌は、信濃の豪族としての道を歩み始めたかのように見えた。

ところが其の年6月、後ろ盾と頼んだ織田信長が明智光秀のために本能寺で打たれてしまい、義昌は反対勢力によって深志城を落とされて木曾へと追い返されてしまった。

そこで義昌は、木曾を確保するために打った手は、徳川家康と誓詞を交わして徳川氏の陣営に加わることだった。しかし新興勢力の羽柴秀吉の将来性を買ってか、徳川氏との誓詞を破って羽柴氏の陣に加わり、小牧山の戦いには徳川氏に敵対して、徳川氏の軍勢の移動を阻止した。

やがて、羽柴氏と徳川氏が和睦をし、羽柴秀吉は天正14年(1586年)1月、太政大臣になり豊臣秀吉と称し、全国支配を成し遂げた。秀吉は関東、信濃を徳川家康に譲ったために、義昌は徳川家康の傘下に入らざるを得なくなった。
ここから木曾氏の悲劇が始まった。


          木曾義昌悲劇の晩年

木曾義昌と同時代に歴史の舞台に登場した人々のうち、最後の勝利を得たのは徳川家康である。武田信玄は戦野に倒れ、その子勝頼は天目山で自刃し、織田信長も本能寺で自刃してしまい、豊臣秀吉の子秀頼は大阪城の炎の中で滅亡してしまう。

木曾氏も又、その子義利の時に廃絶されてしまった。

天正18年(1590年)秀吉は小田原城の北条氏を征服して全国統一を果たした。この小田原城攻略に木曾義昌は病床にあり参加せず、代理として14歳の長男 仙三郎義利を参加させた。だが、義昌の不参加は疑惑の目でみられ、秀吉や家康の不信を買ったのがやがて廃絶される原因の一つとなったのであろう。

豊臣秀吉の命により徳川家康の配下に組み込まれた義昌は、天正18年、下総国阿知戸1万石(現千葉県旭市網戸)へ移封され、木曾谷の領地は召し上げられてしまった。

この地方を治めることになったが、山国から潮騒の地への移転である。当時の阿知戸は椿の海の水際の葦の茂る低湿地で、山林の木曾とは正反対の地、ここに移されておそらく義昌は途方にくれたに違いない。阿知戸1万石は明らかに大きな左遷である。

義昌は、天正18年12月、下総国三川村(現旭市三川)の福蔵寺に入り、一部の将兵は東園寺に入った。そして翌年千葉氏家臣の廃城だった阿知戸城を修復して移った。南東と南西に重臣の屋敷を配置して、城の南には市場が開けるように町づくりが計画された。


文禄2年(1,593年)木曾から禅僧悦堂が来て、城の東一角に東漸寺を創建して木曾家の菩提寺とした。ここに義昌と夫人万里姫の供養墓がある。(後に真言宗に改宗。)





東漸寺にある木曾義昌公の供養搭、右は木曾家代々、左は夫人万里姫の供養搭と思われるが確証はない。


 
その後義昌はおそらく病気のために家督を嫡子義利に譲り阿知戸城で晩年を送ったのであろうが、文禄4年3月17日波乱に富んだ生涯をこの地で終った。

思えば武田信玄、織田信長、徳川家康、豊臣秀吉らの戦国英雄に囲まれ、耕地の少ない木曾谷を地盤にして様々な策を講じながら勢力の保持を図って生き、遂には追い詰められて下総の地で世を去らなければならなかったのは残念であったろう。

結局、義昌は下総国阿知戸城で失意のうちに世を去り、「椿の海」に水葬されたのである。
義昌は文禄4年3月17日、九十九里平野にひろがる椿の海のさざ波を見ながら56歳の生涯を終った。
戦国武将にしては戦野に屍をさらすことも無く他界したが、まぶたに去来したものは木曾谷の美林か、安曇野の清らかなせせらぎか、あるいは滅び去った武田一族の面影か ………

義昌亡き後は、長男義利が継いだが、阿知戸1万石への移封を左遷と見ての不服に基づくものか粗暴な振る舞いが多く、かねてより不和の叔父上松義豊(義昌の弟)を殺したことなどから家康の怒りをかい、慶長5年(1670年)義利は追放され、阿知戸1万石は没収されて直轄地となった。

           木曾氏の所領


木曽氏の所領 阿知戸1万石は、次の20ヶ村であった。
塙 村 …… (旭市塙)……………273石  (石以下は省略)
下長谷村……(匝瑳市長谷)…… 144石
成田村………(旭市 ロ)…………169石
阿知戸村……(旭市 イ)…………154石
十日市場村…(旭市 ハ)…………283石
野中村………(旭市野中)…………156石
見広村………(旭市見広)………… 91石
後草村………(旭市後草)…………160石
江ヶ崎村……(旭市江ヶ崎)………158石
蛇園村………(旭市蛇園)…………278石
小笹村………(匝瑳市小笹)………132石
東、西足洗村(旭市東、西足洗)… 370石
中鑓村………(旭市中谷里)………479石
神宮寺村……(旭市神宮寺)………353石
椎名内村……(旭市椎名内)………172石
足川村………(旭市足川)…………276石
三川村……… (旭市三川) …………678石
八木村……… (銚子市八木) ………903石
上長谷村…… (匝瑳市上長谷) ……219石
横根村……… (旭市横根) ………  660石 
  合  計 ……………………… 6115石2斗9升5合7勺3才
  旭市 戸口剛家蔵書 天正18年「木曾様御代之水帳」より
石高は、蒔高制でみるのと刈高制でみるのとでは違うし、米を測る枡(甲州枡と太閤枡)でも違っていたので、実態把握はかなり困難

           木曾義昌の一族

義昌の子は「木曾考続 木曽氏系譜」によれば、
長男 仙三郎義利   徳川家康により追放され、阿知戸を退去して
              その後行方不明となった、と言われていたが、
              寛永16年(1,629年)伊予国松山で没し、宗屋と号したという。
次男 長次郎義成   豊臣秀吉の小姓、大阪夏の陣で戦死
三男 与惣次義一   義通ともいう。改易後母と共に木曾に帰り余生を送った。
女子 名不詳      毛利伊勢守夫人
女子 名不詳      福島左衛門大夫夫人
女子 名不詳      蜂須賀阿波守夫人
夫人 万里姫      義通を伴い、木曾福島の山中「黒澤」に隠棲した。
              生保4年(1,647年)93歳で逝去、法名・真竜院
              現在、黒沢に墓が残っている




 黒沢に残っている万里姫の墓

改易によりにより木曾家の家臣は四散したが、千村、馬場、山村らは、関が原戦に赴く徳川秀忠のために、木曾谷を掃討して功をたて、関が原合戦にも功があった。このため後に山村甚兵衛義勝は木曾代官に、馬場半左衛門正次は旗本に、千村平右衛門良重は伊那代官に取り立てられた。

いずれも木曾地方の治政に精通していた事と周辺の土豪に対する備えとしての配備であった。特に山村氏は尾張藩に属し木曾代官として明治まで木曽氏に代わって木曾地方を収める事になった。


           木曾義昌公追悼

弘文元年(1844年)3月、木曾氏の末裔と称する木曾義長(芦原検校)が東漸寺で木曾義昌250回忌を営んだが、其のとき葦原検校と親交のあった大名、貴族公卿など多くの人が追悼の和歌を寄せた。

これを纏めたものが「慕香和歌集」として残っている。更に後年、地元の人々の和歌、俳句を加えて刊行したのが「波布里集」である。平成3年12月、残されていた版木により「波布里集」が復刻された。

また、嘉永5年(1852年)京都の学者 野々口隆正(
後に大国隆正と称した。)が東漸寺を尋ね、後に懐旧の和歌を送ってきた。























明治22年(1,889年)網戸村、成田村、十日市場村。大田村を合併したときに、町名を旭としたのは、発展の象徴である朝日とともに、この和歌の旭をとったといわれている。



         木曾義昌公の墓(旭市網戸木曾義昌公遺跡公園)

義昌は椿の海に水葬され、後に椿の海が干拓されたので、天保14年水葬跡に墓が立てられた、墓石の表には
「木曾左典厩兼伊予守源義昌朝臣墓」とある。

平成3年、旭ライオンズクラブにより、木曾義昌公遺跡公園が整備され、傍らに平服座像のおだやかな表情の銅像が立てられた。(トップ写真)

また、毎年八月の七夕まつり時には義昌公を偲び、市民が武者に扮した時代絵巻の「武者行列」が行われている。

        



                    東漸寺正門








 東漸寺















 東漸寺所蔵義昌公の兜



               ――木曾から来た戦国武将終わり。――