☆ 新田村の独立運動 ☆ 新田村々が、元禄の飢饉からようやく立ち直った正徳2年(1712)のころ、新田村である夏目村の六郎兵衛と八重穂村の源右衛門は、所持の田畑の石高に何か間違いがあるのではないか。年貢の額が多すぎると担当の割元名主加瀬重兵衛の許に申し出た。しかし、重兵衛の答えは要領を得ず、それでは検地帳やその他の諸帳面を見せてもらいたいと度々申し込んだが、どうしてもそれを承知しなかった。 その上、両人を見下げる態度で悪口雑言を言うので、両人は怒りを抑えて戻った。新田農民が生死の境をさまよった元禄飢饉の中でさえ、不誠実な態度をとった割元名主達と新田農民との間には、険悪な空気が流れていたのである。 丁度その頃、幕府が直接諸国に派遣する巡見使小嶋九郎右衛門ら一行が下総国に回ってきた。そして9月28日一行が夏目村にやってきたとき、八重穂村の源右衛門、夏目村の六郎兵衛、清滝村の庄兵衛は、この巡見使に訴状を差し上げ、1村ごとに名主を決め、検地帳を下付してほしいと願い出た。こうして新田村々の独立運動が開始されたのである。 しかし、巡見使たちは案内役、接待役として行を共にしてきた割元名主と通じていたので、此の訴状は取り上げられず、一行は何もなかったように。新田村々を通過していった。これを見た源右衛門、六兵衛らは無念の涙にくれたが、こうして一度付けられた新田村独立運動の火は消えなかった。 これを機に結束した新田5カ村は、代表として万力村儀左衛門、夏目村市郎右衛門、幾世村七郎兵衛、清滝村善兵衛、大間手村勘右衛門を撰び、よく正徳3年7月11日、江戸へ登って代官清野与右衛門に訴え出た。 しかし、丁度この時は代官の支配地変更で清野は担当でなくなったので、5ヵ村代表は時の勘定奉行水野因幡守、中山出雲守に訴えた。その訴状には、先年は年貢の割付状は代官より直接百姓に下されていたが、18年以前の元禄9年からは割元名主の所へ行き、新田百姓には小割付がくるだけで、年貢割付状は見ることができず、年貢徴収には疑惑があり百姓たちは困惑している。それ故1村ごとの名主を定めていただきたいと訴えている。 此の訴状は、勘定奉行から次の担当代官万年長十郎に引き渡されたが、この代官もまた、割元名主と共謀して。新田百姓の切なる願いを却下してしまった。しかし、それでも新田農民たちは挫けなかった。その後もことある毎に、1村としての独立を訴え続けた。 正徳5年3月1日、割元名主と結びついていた代官万年長十郎が死ぬと、事態は急変した。とうとう新田農民の願いがかなえられる日が来たのである。この年4月、幕府は新田村々に1村ごとに名主を立てることを許した。これはこの前々年に幕府が諸国の大庄屋、割元名主を廃止する法令を出したことも幸いしていた。 この法令は、将軍家継のもと、新井白石が幕政に参与するようになって、彼の意見で出されたものだった。この大庄屋、割元名主廃止の直接の原因は。越後国村上領の大庄屋の不正事件にあったと言われているが、その法文をみると、この椿新田の事ではないかと疑われるほどである。 ともかく、こうして新田村々は独立した。各村で撰ばれた名主は次の表のとおりである。
こうして、椿新田は、18の新しい村として出発することになった。この時から約100年後に書かれた「椿新田開発記」でも「訴訟人源右衛門ハ、3ヶ年の内右の願いに相成り、願望成就いたしけれハ、喜び勇んで退けリ」と当時の新田農民の喜びを伝えている。 椿新田の18ヵ村は、椿新田開発以来一括して幕府直轄領として特別扱いをしてきたが、誕生してから50年を過ぎた延享3年(1,746年)ようやく一般の村と同じになったと認めたのか、この年の5月幕府は、はじめて幾世、大間手、長尾の3ヵ村を佐倉藩堀田相模守の領地とし、残りの15ヵ村を同藩の預かり地とした そして宝暦11年(1761年)に佐倉藩の管轄を離れて以降は、旗本領となる村や大名領となる村もあり、1村が2給、3給と分かれて行く村もあって、もう新田村も一般の村と変わらない支配の変遷をたどることとなっていった。 ☆ 水をめぐる争いが続く ☆ 椿新田の村々が、幕府の直轄支配を離れて、椿新田の統一的な管理機構がすべてなくなったが、実際は椿新田全体で考えなければならない問題も少なくなかった。特に用排水の問題はすべての村に関係が深かった。この椿新田の排水路の主流である新川の川浚いは、特に村々の関心事だった。 椿新田の中でも、琴田、清滝、万才、入野、関戸、晴海の6ヵ村は窪地で新川の排水が悪くなると冠水して稲の水腐などの被害が出てくる。安永20年(1,778年)6ヵ村は、20年以上川浚いをしていないのでこの辺で川浚いをしたいと提唱して椿新田18ヵ村の会合が開かれた。 しかし、外の村々は、関係が無く、中にはあまり排水が良くなると干害が起きるという村もあり、18ヵ村が共同で費用を出し、川浚いをしようと云っても反対する村が出るわけである。 だが、窪地6ヵ村は相談がまとまらないからとってそのままに済ませるわけにはいかず、それぞれの領主を通して幕府老中に訴えを出した。老中はこれを勘定奉行安藤彈正弼に回して吟味を命じた。閏7月27日と29日奉行は18ヵ村の名主を呼び出し吟味を行ったが、その過程で幾世、大間手、長尾、鎌数、米持、秋田、米込の8ヵ村はどうしても賛成しなかった。 しかし、享保年中以来これまで、新田内の川浚いやその他の普請は18ヵ村が共同でやってきたという事実があったのでこのたびの新川浚いも18ヵ村の村高に応じて費用を負担して行うように命ぜられ、6月下旬から7月まで川浚い工事が行われ完成した。 8月19日18ヵ村の名主が奉行所に呼び出され、今後新川川浚いは毎年行い、又この辺が御鷹捉飼場となっているので、その障害とならないように、川浚いの期日を4月朔日から7月晦日(4月1日から7月末日)までの間に限り、御鷹場の野廻り役に断った上で行うようにと申し渡され、一同承知して請書を提出し、川浚いの問題は終わった。 しかし、この新川の川浚いをめぐる「低い村」と「高い村」との対立は、椿新田に大きな問題を提起した。もはや水をめぐって新田村々は一致できなくなったのである。此のときの川浚いは、兎にも角にも全村で行われたが、これで村々の対立が解消したわけではなかった。
☆ 猛台風で椿新田は水没 ☆ 時、天明6年(1786年)7月14日から16日にかけて、関東地方を襲った猛台風は各地に大被害を与えた。そこで幕府は各大名に命じて「お手伝い普請」としてその復旧に当たらせた。 椿新田の村々もこの台風では、水没して大被害を受けた。そこで翌天明7年正月から2月にかけて幕府の費用で、新川の川浚いをはじめ溜井や用水路の大普請が行われた。此のときのお手伝い担当は安芸広島藩浅野安芸守重晟であったという。 この普請工事によって新川の水行は良くなり、椿新田の排水には役立ったが、逆に高場にある鎌数村などでは干害に悩むこととなる。そこで翌天明8年、鎌数村では新川に堰を作り締め切って水田の用水を確保した。これが窪地の村々の利害と対立し訴訟事件にまで発展する。 このような椿新田の水をめぐる争いは、その後絶えることなく続き、後には新川沿岸の古村と新田村との対立も生じて、争いはいよいよ複雑な様相を示してくるのである。 ☆ 椿新田も遠い上州の大名の支配地になる ☆ 安中藩(現在の群馬県安中市)の藩主 板倉勝清は明和4年(1767年)幕府の老中職に昇進して、下総の国1万5千石の領地を加増される事になった。椿新田内の半数の村と、椿新田の周囲の村が安中領となったのである。 陣屋は江戸から銚子に至る銚子街道から少し入ったところに、周囲に堀をめぐらし、南に長屋門を置き、奥に間口八間、奥行き四間の役所を立てた。 通常1万5千石といえば大名であり、城と共に様々な役職の武士達がいるものだが、安中陣屋は周りの堀は排水路程度の無防備なもので、常駐した役人も少なく、身分の低い代官が2名、代官見習い2名、数名の同心だけで1万5千石の領地の支配拠点としては大変お粗末なものであった。 役人たちの仕事は年貢の徴収だった。この少ない人数では領地内の民生の安定、道水路の整備、産業や学問の振興などには全く手が回らなかったのである。 こんな安中藩のお粗末な支配は、ほぼ100年間も続いた。現在安中藩の残した事績や遺産は殆ど無く、この地の人々の追憶にも全く無いということは、いかに支配が年貢の収奪だけだったかということを物語っている。
☆ 年貢の収奪だけで、村々は貧困状態 ☆ それにしてもこのあたりは貧しかった。椿の海を干拓して出来た新田は、もともとは湖、少し雨が続くと新川の勾配が無いので水はけが悪く、湖に帰ってしまい稲が腐ってしまうのだ。 一方九十九里平野の村々は砂地で保水力が無く、ちょっと日照りが続くと干害になってしまった。新田開発からこのような状態は300年もの間続いた。 稲作が安定しないのに年貢を収奪される農民は生活にあえぎ、幕府権力が斜陽化してくる天保年間になると土地を捨て逃げ出す農民も出てきた。若者はバクチを生業とする無宿渡世人に、娘は口減らしに女郎などに売られてゆく事もあった。 ☆ 世が変わり、千葉県になる ☆ 明治と言う新しい世の中になって100年の支配に終止符を打ち、大田陣屋の代官たちは安中へ帰っていった。それにしても此処には安中の影は残っていない。 大田陣屋の役人たちは唯年貢米の収穫のみに苦心をして、文化的影響は何も与えなかったのであろう。 そして明治6年千葉県が誕生し、明治8年に千葉県に所属する事になった。今では100年間も安中に支配された事も知る人も居なくなった。 ☆★大利根用水が干潟八万石を潤す。★☆ そのため利水、冶水の状況は益々悪化し、低い所は雨が降れば湖となってしまう、何故ならば、新川の海岸から10kmぐらい上流の水田で海抜3〜4mであるから排水の悪いのは当然である、 又一方、日照りが続けば用水をめぐり水争いが頻発するようになったのである。 こうした事態を解消するため、利根川から用水を導入する計画が立てられたが、その規模が大きく、費用も余りにも莫大であったため、なかなか実施されなかった。 ようやく昭和10年に着工され、利根川の用水機場と幹線用水路が施工された。戦時中も中断はあったものの事業は継続され、昭和25年に完成、さらに、昭和32年から48年に掛けて支線用排水路が整備された。 やがて、これらの施設も老朽化が激しくなり、昭和45年から国営事業により全面的に改修され、旱魃の時でも干潟八万石は水量の安定した利根川の水が利用できるようになった。田圃の蛇口をひねれば水が出る!! (詳しいことは大利根用水のお話のページを御覧下さい。) しかし、これは稲作時期だけの事である。 干潟八万石の稲作は安定したが、国内のお米の消費は減るばかり、 政府の方針は毎年多くの水田転作を指示している。水田に大豆や小麦を作れというが、水の中では育たない。 沢山のお金をかけ、良い田圃は出来たけれども米を作れない農家、 何んとした事だ! しかし、最近は様相が変わった。転作を始めた頃の昭和の末期は、転作で作付けしない田圃が沢山見えたが、今は全面が青々と稲が育っている。 これぞまさに干潟八万石!! 世界の食料事情の影響か??
写真、利根の水を満々と湛える新川中流、建物は揚排水機場 ―― 八万石へのあゆみ 終わり ――
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